今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

クリエイティブの可能性 春合宿(10) 物語を紡ぐためにお願いを一つ

復興屋台村を出て東京に向かう車中。クリエイティブの可能性・春合宿の最後のイベントかつメインイベントが待っていました。チェックアウトです。

本気のチェックアウト

復興屋台村から東京まで約5時間。その中で各参加者がこの合宿を振り返って感じた事、これからの事を全員に向かって話す。やることは、これだけです。しかし、この3日間で、見た事、聴いた事、話した事を全身で語る参加者の姿がそこにはありました。


東北で生きている人々の本気に触れて、参加者は本気になりました。これからやりたい事の話、つらい家族との別れの話、身体に対するコンプレックス、いじめや同性愛に対する悩み、自分自身が大嫌いだったという事に気づいた話。メンバーは本気で自分自身の感じた事を語り、皆はその話を全身で聴きました。涙を流して語るメンバーも、話を聴くメンバーの中にも感極まって泣く人もいました。
この合宿の参加メンバーは40人強ですが、「たった」5時間では、全員が想いを皆に告げるのに全然足りませんでした。後半になって、なんとか全員が発表できるよう、5分以内でチェックアウトするようにという制限がついたくらいです。


明日が今日と同じ日であるという保証はどこにもないのだから、経験したいことは迷わず経験した方が良い。
僕はこの合宿の最初の自己紹介でそう挨拶をしました。しかし、僕はこのとき自分が語るべき言葉がなかなか出てこなくて、手をあげる事ができませんでした。これまでの合宿のイベントで、全員が発表できるとは限らないことはわかっていたし、たとえ不完全でも何にも問題は無いこともわかっていたのに。結局5分でサマリ、というより続きは春合宿のFBページで話すと予告をして終わりました。
とはいえ、メンバーの色々な本気を目の当たりにすることができたので、あの場でああいった形で終わった事自体には何も後悔はありません。あれで時間を使ったのであれば、僕のチェックアウトの時間は惜しくありません。もっとも、あの本気で満たされた車中で気持ちを全て語ろうとしたら、また違った想いが溢れたのだろうか、とは思いますが。どうしてあの場ですぐに手を挙げてチェックアウトしなかったのか。前述したように語るべき言葉が出てこなかった、ということもあるのですが、突き詰めればきっとメンバーの本気に圧倒されたから、だろうなと思っています。自分が語ろうとしている言葉は、本当に自分の本気の言葉なのか?



この合宿は、参加メンバーが「本気」とは何かを感じ取り、身につけていく合宿。合宿を終えて、僕はそんな感想を持っています。できる事や意義を考え、身体を動かし、そして対話をし、あらゆる事を「感じ取る」。自分の人生を振り返って、後者二つが圧倒的に足りなかった事を思い知らされました。僕にとって、クリエイティブの可能性は、この二つを取り戻すための合宿になりました。

諦めたくなんか無かった

学生時代の頃からの話ですが、元々どうやって会話をすればいいのか、雑談をすればいいのか、僕にはずっとわかりませんでした。そんな僕には「インターネット」というのは -特に電子メール、チャットという機能は- 夢にまで見た機能でした。

・滑舌悪いけどPC上なら関係ない、キーボードで文字が打てればOK、タイピングは早い方
・返事はある程度時間を置いていい、その瞬間で答えなくていいから返事に詰まっても時間を置いて考えて答えられればOK
・多人数で話しても自分がわかる話題にだけ集中すれば良い、話題が並行して進むので会話でスルーされることが少ない

これらの特徴は、自分が普段の会話で感じていた問題点を全部見事に解消してくれる、とんでもなく素晴らしい機能でした。オンラインでは表面的な事だけしか言えない、直接話すのが一番、という意見にも全く賛同できませんでした。 オンラインなら、たとえ表面的でも会話はできるからです。オフラインでその表面的な会話すらできない僕にとっては、オンライン優位は絶対的な真理でした。僕は成果の出ないオフラインに背を向け、オンラインに集中しようと決めました。大学生の終わり頃、そう決めました。


この3日間、色々な人と色々な話をしたなと思います。予想外に盛り上がったり、自分の感じた事をうまく伝えられなかったり、どう返していいかわからなかったり、そもそも輪に入れなかったり。でも、うまく行ったと思った時も、いつもと同じ平常運転と思った時も、ある種の発見がありました。
いろんな人と話してたわいのない話で盛り上がったり、どうするべきか真剣に意見を交わしたり交わしたり、たまにぶつかったり。僕が思い描いていた人との会話は、こんな感じでした。他にも色々やりたい事はありました。体をきちんと鍛えたりとか、プログラムをもう一度きちんと学んで他の技術者と交流したいとか、以前書いた、街を耕したいとか。しかし、僕には何のアイデアも無く、手がかりもありませんでした。とりあえずやらないと行けない事はこなしていきましたが、そういったことは、超人的な人にのみ与えられた特権なのだと思うようになりました。


本当はそういった事を、一つも諦めたくなんかなかった。


この合宿で、僕はまだ心の中に燻っているものがある事をはっきりと意識しました。「自分と向き合う」という言葉をきちんと理解していませんでした。そういう気持ちがどこかにある事は、わかっていました。しかし、そのことをはっきりと自覚して、かつ積極的なアクションを起こそうという気にはなれませんでした。平たく言えば「折り合いを付ける」という言葉を利用して避けていました。
合宿が終わってから、ちょっとずつアクションが増えていきました。諦めていた事をもう一回やるためです。きっと、いくつかはうまく行かないで終わるでしょう。しかし、それでも踏ん切りをつけて、本当の意味で折り合いを付けるためにやります。


僕の春合宿の物語は、とりあえずはこれで完結です。ただ、この物語は自分にとってはメインの物語ですが、他の人にとってはあくまでサイドストーリーです。参加者全員に、それぞれの物語があります。そして、その物語をかけ合わせたものこそが「クリエイティブの可能性・春合宿」だった、そう僕は想います。


物語を紡ぐためのお願い

さて、ここまで読んでくださった皆様にお願いがあります。それは、この「クリエイティブの可能性」という物語を今後も紡いでいくための支援をお願いしたいという事です。ぶっちゃけてしまうと、寄付のお願いです。この夏、クリエイティブの可能性 夏合宿として第4弾の合宿が開催されます。今回も東北でボランティア活動を行いつつ、対話を通じて参加メンバーがそれぞれの自分を向き合い、本気になる合宿です。
「クリエイティブの可能性」という合宿は、リーダーや幹事を除いて、一度参加したらもうおしまい、二度目以降は参加できないというルールがあります。これまで3回開催されてきましたが、きっと3回とも全然違う物語が生まれていたし、今度の合宿でも全く違った物語が生まれる事でしょう。しかし、共通している事があります。参加者が本気だと言う事です。今回の合宿リーダーを務める野村謙次さん(野村さん自身も今回の春合宿参加者です)のブログはこちら。想いを感じ取っていただければ幸いです。



「最後に金の話かよ」と思われた皆様、ごめんなさい。しかし、クリエイティブの可能性という物語を続けていく上で、お金の話は避けて通れない話です。この合宿に参加したメンバーの一人として、僕はどうしても支援せずにはいられないのです。どうか、参加メンバーが本気の自分と向きあう時間を作るためのお手伝いをしていただけないでしょうか。というお願いです。

1口5,000円〜
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三菱東京UFJ銀行・新宿通支店・普通 0033463
名義:ノムラケンジ
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なお、私も2口寄付させていただきました。これからも物語が続いていきますように。


3ヶ月強書いてきた合宿の話は、ひとまずこれで完結です。長い事読んでいただき本当にありがとうございました。次の記事からはいつもの記事に戻りますが*1、今後ともよろしくお願い致します。

※反応・感想が知りたいので、もし良い記事だと感じたら、はてブやRTをしていただけるとありがたく思います。

それでは、また。

*1:とはいうものの、いままでどんな記事でどんな書き方をしてきたかあんまり思い出せない……。

クリエイティブの可能性 春合宿(9) 気仙沼のご飯を味わうことについて

最後のダイアログが終わった後も、他のメンバーとこの2日間で感じたことを夜遅くまで話しました。実際に触れて感じるという身体的な感覚が大切だという事、現実はどこまでもリアルで、ドラマやゲームとは全く違う事。




「起きて!!遅れてる!!もうバス出る時間!!」
※画像はあくまでイメージです。


遅くまで酒を飲んでてグースカ寝ている僕たちを起こしにきたのは隣に住んでる幼なじみではありませんでした。怒りのアフガンと化した野田リーダーに起こされ、慌てて身支度を整えてバスに乗り込んだら今度は行方不明者が出る始末。顛末としてはただの寝坊だったため事なきを得たのですが、僕も含めた遅刻組を迎える添乗員の橋本さんの目が笑ってなかったのを、僕ははっきり覚えています。ご迷惑をおかけしてしまい、ごめんなさい。


気仙沼の今と未来

さて、そんな3日目は気仙沼に行きました。ボランティア活動は無く観光がメインで、地元のツアーガイドの方と気仙沼漁港を巡りました。



訪れたのは月曜日だったため、漁港では普通に働いている人がいました。ネットで気仙沼が火の海になっている写真を見ていたので心配していたのですが、すでに働けるほどに復旧している事に安心したのを覚えています。



とはいえ、津波でできたと思われる建物のヒビや壊れた窓はまだまだ残っていて、震災からの復旧活動はまだ終わっていないと感じられました。


前日にNango-baseの武田さんが「気仙沼は漁業にこだわらなくても」という話をされていました。もちろん、武田さんが言いたかったのは別に漁業を捨てろとかそういう話ではありません。ただ、気仙沼の漁港を巡り、ガイドの方のお話をうかがっていると、気仙沼という街は漁業という産業や漁港といった場所と本当に密接に結びついているように感じられました。



気仙沼の明日はどうなるのだろう。
漁港から見える海は、何事も無かったかのように -それこそ津波なんて無かったかのように- ただ動いてました。波が寄せて、波が引いて、ウミネコが鳴き、少し遠くの漁船がゆっくりと揺れ動く様は、これが日常というもので、変わりようが無いもののように見えました。それは変化の拒絶ではなく、絶え間ない変化の中に残る不変である、と。




昼食は復興屋台村で海鮮丼を食べました。さすが漁港近くなだけあって、具は全部美味しかったです。和布蕪*1が地味に美味しかったのが個人的にヒットでした。海産物があまりに美味しかったので、お土産にひじきやわかめを買い込み、家でも作る事に決めました。
帰宅して作ったのがこちら。わかめご飯、海苔のみそ汁、ひじきの煮物、しらすと空豆のサラダ。


お土産を買って自宅で料理をしたのには、単純に美味しいからという以外にもう一つ理由があります。被災地に対してフックをかけたかったからです。

未来を決めるフック

今年の3月11日はずっと家にいたのですが、その時twitterで一番印象に残ったツイートがあります。

いつから日本人は1月17日に黙祷をしなくなったのだろうな

今年の1月17日、僕は特に何もしませんでした。その日、阪神淡路大震災が起こったこともtwitterで見るまですっぽ抜けていました。
僕にとって阪神淡路大震災は、西日本で起こった大震災以上の意味がありませんでした。母方の祖母は神戸在住ですが、特に被害が無かったのも一因でしょう。当時高校1年生で、世間とか外の世界を避けて閉じこもってほとんどニュースも見ていなかったこともあり、阪神淡路大震災はただの大災害という位置づけでした。
そして去年の12月頃、「もう震災のニュースなんて飽きたでしょ?」というツイートが流れてきました。阪神淡路大震災の時より、ニュースの量は多くなり、僕は受け取っていたニュースなどの情報量も比較にならないくらい多くなっていました。しかし、3月11日に多少混乱はしたものの、その後取り敢えず普通に生活できている僕にとって、ニュースを見なくなって仕事が忙しくなると忘れる東日本大震災はやはり「ただの大震災」でした。根っこは一緒でした。



何かフックが無いと、必ず忘れる。



そのまま忘れるという選択肢もありました。しかし、その選択肢を取ることになんだか言いようのない不安がありました。何かを流すことで、大事なものを逃すような、そんな不安です。この不安が何なのかわかりませんでしたが、そのわからない分だけ不安は大きくなっていきました。 僕は2月のボランティアツアーに申し込みました。不安を解消したい、被災地へのフックを掛けたかったからです。
2月にもボランティアツアーに行きましたが、良い経験だと思いました。何より石巻への気持ちのフックが出来たのが心理的に満足できました。なぜ、心理的なフックが出来たことで満足したのか。今回の合宿でよくわかりました。存在を忘れないで済んだからです。一生涯東北のことを忘れないでいられるか、と言ったら正直そこまで自信がありません。しかし、陸前高田の松が再生しようとしていることや、石巻気仙沼の海産物がめっぽう美味しかったりとか、そういうことならずっと覚えていられます。


「信頼の崩壊」は、あらゆるインフラの崩壊

お土産の海産物はとても美味しかったです。それだけに、3.11で発生した原発放射能問題が重くのしかかりました。料理の写真をアップした時も「ベクレルは大丈夫なのか」と尋ねられました。今もなお、子供を持つ人々を中心に不安に思っている人は多くいます。
その後、包装の裏面に書いてあった会社に問い合わせました。検査をきちんと受けてパスした商品しか出していないし、HPにも証明書があるという回答でした。きっと3.11以前なら、誰もこの回答を疑問には思わなかったでしょう。しかし、今は違います。仮に問題があったとしてもそんなことは言わないだろう、そもそも検査の方法に問題はないのか、と回答を信じない人がいます。もっとも、そのことを責めることなんかできません。この1年間、日本は原発放射能をめぐって情報が錯綜し大きく混乱しました。そしてその問題は今もなお続いています。そんな状態では、何かあったらまずいとして徹底的に疑う姿勢をとったとしても仕方のないことでしょう。



もし誰も、この検査を、この回答を信じなかったらどうなるのか。誰もこの海産物を買う事は無くなるでしょう。当然、この海産物を食べる人はいなくなり、漁業は無くなり、地元の定食屋や土産屋は立ち行かなくなり、そしてこの海産物がどんだけ美味しいのか、知る人は最終的にはいなくなります。僕はここの海産物を食べて、とても美味しいと感じました。特にひじきは、普段スーパーで買っているひじきと違いすぎてびっくりしたほどです。
それだけに、この海産物が食べられなくなるとしたら、僕はとてもショックを受けるでしょう。「信頼」が無くなるという事は、究極的には商取引・食文化なども含めたあらゆるインフラが無くなる事なのだと思いました。



気仙沼を後にした我々は、バスに乗って帰路につきました。
バスの車内では、この合宿最後のイベント、チェックアウトが行われました。簡単に言うと、この合宿を自分なりにまとめて語る、というものです。実は長々と合宿のことについて書いてきましたが、この合宿のメインはこのチェックアウトです


合宿について長々と書いてきましたが、次の記事で最後になります。もう少々お付き合いいただければ幸いです。

※反応・感想が知りたいので、もし良い記事だと感じたら、はてブやRTをしていただけるとありがたく思います。


それでは、また。

*1:めかぶ」てこういう漢字なんだ。知らなかった。

クリエイティブの可能性 春合宿(8) 街を耕す夢 -Foursquareが好きな理由・1-

ダイアログの時間

3日目の夕食を終えて、ダイアログ(対話)の時間になりました。




この合宿では、夜の時間にグループに分かれてダイアログをやります。ダイアログとは、「東北に来た感想」「ボランティアとは何か」「絆とは何か」など、リーダーのゆーきさんが設定したテーマに沿って文字通り対話をしていく、というものです。
2日目のダイアログ、つまり初回のダイアログはそれぞれのメンバーがボランティアの疲れや未だ打ち解けてない部分があり、固かったり意見を出しきれなかったりして、もやもやした部分が残ってしまいました*1。しかし今回は、2回のボランティアを終え、道中で話をたくさんしたこともあり、初回よりもはるかに打ち解けた話ができました。僕も含め、メンバーが皆テーマについて様々な想いを話しました。明らかに前日よりも踏み込んだ話になってました。たとえたどたどしくても、たとえ歪でも、その人が懸命に想いを伝えようとしたことが感じられるようでした。


そしてダイアログも終盤になり、最後のテーマが発表されました。通常の進行では、グループで対話をした後に、代表一人が全体に向けてグループ内の意見を発表します。しかし、最後のテーマはグループ内で対話をした後、各個人が全体に向けて自分の意見を発表するという進行でした。そのテーマは、


あなたが人生の中で成し遂げたいことはなんですか?


壮大なテーマでした。グループ内でも捉えどころがなく、意見をぶつけて盛り上がるというよりは、ポツポツとメンバーが話すのを静かに聞いて対話をするという進み方をしました。それでも、今まで後悔していたこと、ずっと感じていたことを素直に話し合えるいい時間でした。

グループ内の対話が終わり、発表する時間になりました。何人かが発表をしました。


圧倒されました。深い話がどんどん出てきました。半生を語ったり、夢をきちんと語ったり。そんな中では、自分の「成し遂げたいこと」はなんだかとても心もとないものに思えました。しかし、ここで言わないと色々もやもやしそうでした。「明日が今日と同じ日であるという保証はどこにもありません。なので、経験したいことは迷わず経験した方が良いと考えています。」と言った手前もあり、発表することにしました。以下は、自分がそこで話したダイアログの内容に加筆をしたものです。

街の思い出、街を耕す夢

「みんなすごい本気でビックリしました。……‥えーと、僕はライトな話で。ええ。

『人生において成し遂げたいこと』。正直掴みどころが無くて困っていたんですが、一つ、はっと閃いた考えがありました。『街を耕して作って行きたい、そこに居たいと思える街を作りたい』ということです。
今、僕が着ているTシャツですが、これはFoursquareというアプリのシャツです。何人かの方はご存知だと思いますが、僕はこのアプリが大好きなんです。ただ、どうしてFoursquareが好きなのか、正直上手く説明できなかったんです。それが、今回これまでボランティアしたり皆と話をしていく中で、少しずつわかってきたかな、と思います。「自分の存在を確認できる*2」「お気に入りの場所を開拓できる、共有できる」ということなのかな、と。特に今回、この合宿に参加して「お気に入りの場所を開拓できる、共有できる」という事が楽しいんだという事がわかりました。


僕は自分の学生生活について、正直あまり楽しくない、実りのない学生生活を送ってしまったという後悔をずっと持っていて、それで20代の頃は、学生生活をやり直したいやり直したいと呪いのように呟いていたんですよ、ええ。ところが、そんな呪われた学生時代を過ごした街でも、そこには楽しい思い出があったんです。

あまりに辛くて、食事と言うよりは決闘といったほうがいいカレー屋*3
もう閉店しちゃったけど、ナスと豚肉の味噌炒めが絶品で親父さんとの会話は必ずグダグダになる定食屋。卒業式の日、色紙を書いて持って行ったら発泡酒をサービスしてくれました*4
4冊100円という破格の値段で文庫本を売っていて、星新一ショートショートを買い漁った古本屋。*5
普通の本と普通の本の間にこっそりフランス書院を挟んだら、見逃して売ってくれた古本屋のおじさん。*6
売ってくれなかったジジイ。*7
高校3年の時に初めて入って、その雰囲気に圧倒されつつ、自分が数段賢くなったと錯覚できる大学図書館


学生生活が不毛でも、その街は嫌いではありませんでした。その街で僕は、自分なりに楽しみを見つけて、自分なりに楽しんだのです。そのように、街を自分で開拓していく楽しさがFoursquareにあるのかな、と思いました。そして、お気に入りの場所が増えていくことで、少しずつ自分なりの街を描いていって、街を通じて馴染みの人々や未だ見ぬ人々と関わっていくようになるのかな、と。


最近は、いわゆるグローバリゼーションがよく話題になっています。そこで語られる内容は、製造業はもう日本ではやっていけない、雇用はどんどん減っていく、若者は海外を目指すべき、などなど。確かにそれらの内容はおそらくその通りになっていくのでしょう。しかし、体力的な問題やその他様々な理由で、今いる場所を離れることのできない、離れたくないと言う人々がいます。震災で被害に遭った人々は、経済的な理由とはまた別に、今いる場所を離れたくない。そう感じました。


今日、武田さんが「震災は新しい気仙沼を作っていくチャンス」と話していました。今、やらなければいけないのは、「それぞれの」街をもう一度作ることだと思ってます。僕自身は、例えば都市計画や不動産など、そういったことは全くの門外漢です。しかし、それでもなお、何かできることはないかと気にかかっています。僕にとっては、位置情報やそれに関するサービスは、そんな自分と街を作ることを繋ぐための鍵だと感じています。30過ぎているしこういう事は言いたくないのですが、未だ未熟者です。それでも、僕はそういった夢を諦めたくない、今回の合宿でそう感じました。

以上です。ありがとうございました。」


発表を終えた僕は、なんだかフワフワとした高揚感を味わっていました。「みっともなかった、発表するんじゃなかった」という気持ちはこれっぽっちもあありませんでした。壮大な内容でなくても、斬新な内容でなくても、あそこで話した内容は、僕が心の底から言いたかったことに違いなかったからでしょう。
ちなみにノートに書いてあった、「人生で成し遂げたいこと しゅう君がベタ褒めしてくれて嬉しかった。」という記録のお陰で、この記事を書くことに自信が持てました。しゅう君、褒めてくれて本当にありがとう。


その後の飲み会は盛り上がったに決まっているのですが、この時ほど酒に弱い&寝ないとポンコツになる体質を恨んだことはありません。2時まで頑張りましたが限界でした。薄れいく意識の中で歯を磨きながら布団にダイブしました。
次以降の記事に続きます。



※反応・感想が知りたいので、もし良い記事だと感じたら、はてブやRTをしていただけるとありがたく思います。

それでは、また。

*1:後で聴いたところ、僕以外のメンバーも同じような感想を抱いていました。

*2:この辺は、一部の方に「Foursquareと哲学」として少しお話しした内容です。後日改めて記事を書きます。

*3:メーヤウ。オススメです。

*4:珍味フォーエバー。

*5:先日行ったら無くなっていました。残念。

*6:先日行ったら無くなっていました。残念。

*7:先日行ったら無くなっていました。残念。

クリエイティブの可能性 春合宿(7) できることを、きちんとやる

時間が開いてしまいましたが、まだ続きます。
植林ボランティアを終えた後は、再び南三陸へ向かいました。目的は、震災後、地元の復興のために活動を続けられている武田雄高さんのお話を伺うためです。

武田さんの復興活動

元々は薬剤師をされていた武田さんは、震災後、ランドクルーザーを購入し(!)、血圧や糖尿病の薬など様々な薬を届ける方面に運んでいたそうです。こう書くと(ランドクルーザーはともかく)そこまで驚く話ではないように聞こえますが、そこに至るまでの経緯は平坦なものではありませんでした。実家の薬局は瓦礫で埋まって入れなかったので、警察に事情を説明して瓦礫の撤去を頼み込んだり、ヘドロで汚れた器具などを洗浄したり、離島に薬を運ぶために田沢湖で使っている船を借りて届けたり。*1
その後医療チームが到着しましたが、地図はあっても目印が無くなっているので目的地に到着するのに時間がかかったりしていたので、同行して案内をするなどの活動をされていたそうです。そういった武田さんの働きのおかげで、災害時の医療体制で薬剤師の同伴の有効性が認められ、全国規模の体制に影響を与えている、とのことでした。*2
武田さんは、現在「地域復興支援基地 NANGO-BASE」を立ち上げ、引き続き被災地復興に向けて活動しています。

できることをきちんとやる

武田さんは「できることをひたすらやった」ということを述べていたのが印象的でした。前述したとおり、武田さんの働きのおかげで、災害時の医療体制が大きく変わろうとしています。しかし、武田さんが実際にやったのは、警察に瓦礫撤去をお願いしたり、ヘドロで汚れた器具を洗浄したりといった地味で細かい作業がほとんどでした。ランドクルーザー購入は確かに大きなアクションですが、それだけやったとしても、それ以外の地味な作業がなければここまで効果はなかったでしょう。



人間関係も同じ。できることをやる。



話を聴いている最中にいきなりそんな考えが閃いたので、僕は文字通りビクっとしました。
どうしてこんな考えが閃いたのか、全くわかりません。しかし、この考えは僕の心を大きく揺さぶりました。


「ノリ」とか「適当にやる」とか「普通にやる」とか。そういうのが会話とか組織の活動で出てくる度に憂鬱な気持ちになりました。それが具体的に何を表すのか、全然わかりませんでした。考えて考えて「自分の考えた普通」をやってこっぴどく怒られた時は頭を抱えました。こういった事がずっと尾を引きずっていて、馴染めないのはノリについていけないからだと思っていました。しまいにはそういうノリが大嫌いになっていました。
しかし、馴染めなかったのはそれだけが原因ではなかったのでしょう。それで何もできないと思いこんで、何もしなかったからです。だから、かつての組織なり所属なりに何か思いを引きずっているのだと。それが分かった瞬間、自分が(勝手に)気に病んできたことが、台風が過ぎ去っていくかのように無くなり、気持ちが晴れていきました。


「できることをきちんとやる」というのは、単純なことですが言うほど簡単な話ではありません。僕はそう思います。できないことに気を取られてできることを見失ったり、できることを過小評価して無力感に悩んだり。


武田さんたちに見送られながら、合宿メンバーはバスに乗って宿へと向かいました。車中で僕は瓦礫撤去のボランティアリーダー・金さん、今回の合宿リーダー・ゆーきさん、陸前高田の松を守る会の会長さん、先ほどお会いした武田さんの顔を思い浮かべました。色んな人が自分のできることを懸命になってやっている。
「僕は何をしたらいいんだろうな」
もう日が落ちてほとんど何も見えない真っ暗な外をぼんやり眺めながら、僕は物思いに耽りました。自分のできることを蔑ろにしてきた僕には、そんなに簡単に答を見つけることができませんでした。


バスが宿に到着しました。ボランティアなどの疲れがたまっていたのでしょう、いつの間にか寝てしまっていました。
宿の夕飯は美味しかったし、何より温泉は心身の疲れを癒してくれました。明日の朝も入るぜーと決めながら僕は満喫しました。けれどもその一方で、先ほどのもやもやはまだ自分の中で燻っていました。


入浴を終えてダイアログ(対話)の時間になりました。そこで僕は合宿メンバーの本気に触れることになります。人の本気は他の人の本気を呼び起こす。そのことが肌で実感できました。
次以降の記事に続きます。


※反応・感想が知りたいので、もし良い記事だと感じたら、はてブやRTをしていただけるとありがたく思います。

それでは、また。

*1:このへん、ノートを頼りに書いてますが、認識相違があったらごめんなさい。

*2:活動の詳細は、こちらの記事にも詳しく書かれています。

クリエイティブの可能性 春合宿(6) 再び7万本の松

3日目、6:00起床。
普段の起床時間とほぼ同じでしたが、きちんと布団で寝なかった*1分疲労は溜まっていたし、体をかなり動かした上に前日酒を飲んだため起きるのはしんどかったです。それでも朝食を食べていくうちに体は起きてきました*2。6:30に出発し、再び陸前高田ボランティアセンターに向かいました。

再び7万本の松

この日のボランティア活動は、高田松原を守る会のみなさんと一緒に松を植える作業。陸前高田の7万本の松を再生させるプロジェクトのお手伝いです。そもそもこのボランティア活動は前回の冬合宿からの続きで、前回は整地のみだったのが、今回いよいよ植樹に入るとのことでした。
まず松を植える前の整地を行い、それから植樹。再生に向けての取り組みという明るい内容だからか、メンバーも和気あいあいと話し合いながら楽しく作業をしていました。僕自身、(運動量が少なかったという基本的な理由ももちろんありましたが)昨日より楽しく作業ができました。


陣中見舞いとして、サックス奏者の小林洋平さんから曲を聞かせてもらったり、横浜のありあけハーバーを販売されている上原淳一郎さんからお菓子の差し入れをいただいたり。本当に有難うございました。


頂いたお菓子。奇跡の一本松が描かれています。

語り継ぐこと

印象的だったのは、高田松原を守る会の皆さんです。特に会長さんは実にいい笑顔で、とても楽しそうでした。
1年前、あんなにひどい災害に見舞われたのに。


「松を植えたところで、また地震が起こって同じように津波が来たらどうするのか」
植樹を始める前、そんな疑問を持っていました。しかし、その疑問の答えは松を植えていくことでなんとなく掴めました。

「それでも松を植えて7万本の松がある高田松原を復活させたい」
会長さん以下、ひどい地震津波に見舞われても、陸前高田から「恒常的に」出ていく、という選択肢は持たないでしょう。それは高齢で移動が困難だからとかいった理由とは別に、そもそもこの土地に居続けたいという意志があるからです。そこには、ちょっとした面白い出来事や大切な人々、あるいはひどい自然災害など様々な出来事の記憶があって、その記憶は住み続ける人々の伝聞だったり記念碑だったりなどの様々な形で子孫へ、未来へと受け継がれていくのです。
きっと、そういったことの積み重ねが郷土愛というものなのだろうなと思いました。

マイナスを無くす VS 未来を作る

前述したとおり、植樹のボランティアは楽しかったです。要因はいくつかあると思いますが、「これから育つ木を植える」という未来へと繋がることをイメージしやすい作業だっため気持ちが明るくなった、ということは少なからずあったと考えています。瓦礫処理も確かに将来家を立てたりなど未来を作るためには必要な作業ですが、どちらかと言えば「マイナスをゼロに戻す」作業で、未来へと繋がる実感は植樹ほどは得られなかったのは事実です。

そう考えると、「瓦礫被災地で全て処理すべき」という意見には賛同できなくなりました。特に「雇用が急減した東北にとっては雇用機会が増えていいこと」という意見に、です。まだまだ沢山の瓦礫が東北にはありました。1年以上経ったのに、です。それでもなお東北だけで処理する、というのは何時まで経っても終わらない作業のように感じられました。さらには、東北の人々がそのような「マイナスをゼロにする作業」に長期間従事するとどうなるか。東北の人は完全に意気消沈し、全く希望が持てなくなってもおかしくない状態になっても、不思議ではないでしょう。
おそらくかなりの極論だと思います。しかし、ボランティアで瓦礫処理と植樹を両方体験したことから考えると、これから東北が復興するためには、被災者自身の手で「未来を作る」ということを行なわないといけないし、そのためには未来を作ることに近い仕事をさせるべきではないかと思うのです。



植樹ボランティアを終えた一行は、地元の復興のために活動を続けられている武田雄高さんの話を伺うために、再び南三陸に戻りました。
次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:初日はバス泊でした。思ったよりは寝れましたが所詮はバス泊なので……。

*2:本合宿のリーダー、野田さんのブログ読んで気付いたんですが、この時間の朝食って確かに普段より早いですね。旅館の皆様、お手数をおかけしました。そして、ありがとうございました。

クリエイティブの可能性 春合宿(5) 陸前高田の温かい炎

陸前高田小学校に到着しました。
現地で待っててくれたのは、この春合宿で事前準備など裏で色々動いてくれている5人の裏部隊メンバー、そして社会福祉協議会の安田留美さんでした。
全員が集まったところで、キャンプファイヤーが始まりました。組まれた木に火が灯されるのを見ながら、もう20年以上キャンプファイヤーなんてやったことなかったなあと昔のことを思いました。


いや、燃え盛りすぎだろ。


炎が落ち着いたところで、安田さんのお話が始まりました。拡声器を使っていて一部よく聴き取れなかった箇所はあったものの、僕にとってはショックを受ける内容でした。瓦礫も自分たちの財産であるという話、そして外からの援助を受け入れなかった理由についてです。

瓦礫も遺体も財産

安田さんが語っていたことで、鮮烈に印象に残ったフレーズです。きっとこの日のボランティア活動をする前にこの言葉を聴いてもピンとこなかったでしょう。しかし、南三陸で見たインスタント食品やファミコンソフト、酒瓶などを見た後ではこの言葉が何を意味するのか、ぼんやりですが感じ取ることができました。*1そこには確かに生きている人がいて、そこにいた人々の記憶があります。だからこそ、瓦礫もまた財産なのだと。
街の復興のためには、瓦礫は必ず処分しなくてはいけません。しかし、それでも丁寧に扱いたいという気持ちが感じられました。ボランティア活動で、僕は砕けたガラスや陶磁器を、さっさとどかそうとぞんざいに扱っていました。この話を聴いて申し訳なく思いました。

もう一つ安田さんが話していたのは、なぜ陸前高田が当初外部からの支援を積極的に受け入れなかったのか、についてです。


四十九日を迎える前に、自分たちの手で遺体を見つけたかった。自分たちの手で見つけて、供養したかった。


いくら自分たちの手で、と言っても限界があるんじゃないか。助けを借りて早く見つけて供養しようとは思わなかったのだろうか。当初はそう思いました。しかし、この理由が、先ほどの瓦礫の話とオーバーラップした時、考えが変わりました。亡くなったのは地元の人であり、自分たちの家族や友人。その人は「自分にとって」大事な人達です。外部のボランティアやその他の団体が迅速に活動を行い発見したその死体は、陸前高田の人々にとっては大事な人々の遺体です。いくら迅速に活動を行い、その死体を丁寧に大事に扱ったとしても、そこには埋めがたいギャップがあります。



昼間、瓦礫を無造作にバケツに放り込みました。
自分がボランティアでやったのは、要するに陸前高田の人々の遺体をぞんざいに扱ったようなもんじゃないのか?
あまりに恐ろしい仮説だったので、さすがに大げさだと打ち消しましたが、なんとも言えない気持ち悪さと後悔がべっとりと胸に残りました。

暖を取れるということ

それでも、その胸のつかえは程無く取れることになります。その後、裏部隊メンバーが炊き出しをしてくれたご飯と豚汁を頂いたお陰、という極めて原始的な理由ですが*2。しかし、昼間の復興商店街で買ったロールケーキがめっぽう美味しかったり、その日のボランティア作業の苦労を合宿メンバーと分かちあったり、その後改めて陸前高田の復興について安田さんからお話を伺わせていただいたり、少しずつ体が心身ともに暖まってくるのを感じました。今回の合宿のテーマの一つに「感謝」があったのですが、この時感覚として理解できました。一人では暖まることができないからです。


陸前高田小学校を後にし、ようやく泊まる旅館に到着しました。そこで第一回目の「ダイアログ(対話)」が行われたのですが、今回のボランティアをテーマにしたものであまり明るい内容ではありませんでした。*3
ダイアログを終え温泉に入った段階ですっかり体が休むモードになっていたので、有志の飲み会もすぐに切り上げて僕は寝ました。布団てあったけーなー、と思いながら就寝しました。
次以降の記事に続きます。


それでは、また。

*1:「はっきりと」とは書けません。津波で財産を失ったことはもはや自分の想像の域を超えてしまっているとその時感じられたからです。

*2:ちなみにこの時鯖フレークの存在を初めて知りました。美味しかったです。なぜか近所で売ってないのが残念。

*3:この辺りは、後の記事でまとめて書く予定です。

クリエイティブの可能性 春合宿(4) 奇跡の一本松じゃない方に思いを馳せて

瓦礫撤去を終えた僕は心身ともに疲れていたので、バス車内ではずっとぐったりしていました。

バスは陸前高田に到着しました。バスから降りた我々に見えたのは、3・11の津波でも唯一流されなかった「奇跡の一本松」でした。歩いていけるとのことなので、下から眺めてみたいと思い、一本松に向かいました。ただ、足場は工事中で不安定な上にボランティア作業で長靴を履いたままだったので、歩きづらかったです。大きな地震が起こりませんように、と思いながら一本松へ向かいました。

奇跡の一本松


海岸には1年たった今も、津波で流されたと思われる木々が転がっていました。



一本松に到着。写真が暗くてすみません。
陸前高田にはもともと7万本の松があったそうです。しかし、津波でほとんどの松が流されてしまいました。その中で1本だけ奇跡的に流されずに残ったのがこの「奇跡の一本松」です。もっとも、この松も海水で根が腐ってしまい、もうもたないというのが悲しいです。それでもなお、松は懸命に生きようとしているように感じられました。
この一本松は、奇跡的に残りました。しかし、それが意味することは、残りの6万9999本の松が耐えられずに流されたという事実です。流された松は、海岸近くに打ち捨てられたり、どこかの土砂の中に埋まっていたりするのでしょう。後で尋ねたところ、やはり「どこへ行ったのかは全然わからない」とのことでした。

記憶が無くなる悲しさ

もうここには、7万本の松はありません*1。ただ、復興のシンボルとしての松が一本立っているだけです。それが悲しいことだと感じました。そこにあった7万本の松とその記憶が、一気に流されてしまったように思えたからです。松原公園の表札を見た時と同じ悲しみでした。
地震津波で破壊されたのは、人々の生命や建築物といった目に見えるものだけではありませんでした。人々の思い出や記録といった、目に見えないものも同じように破壊されていました。忘れられたり、思いを馳せられなくなっていったのだと。一本松と周辺の打ち捨てられた木々を見た時、そのことが理解できました。たまにニュースなどで被災地の人々が語っていた「忘れられるのが本当につらい」という言葉の意味は、きっとそういうことだったのか、と。


少し大げさですが、その時僕が見ている世界が少しだけ変わって見えました。ボランティア作業で疲れた体ではまだ十分に受け止める事は出来ていませんでしたが、何か大事な手がかりを手に入れたと思えました。
一本松からバスに戻ってきて、添乗員さんに一本松の側に行ったことを話しました。すると添乗員さんは、また僕の見ている世界を変えるきっかけとなる言葉をくれました。


あ、あれ違いますよ?一本松じゃないです。



…え?



「奇跡の一本松って、向こうの根元が緑になっている方ですよ。この写真で言うと、黄色の枠で囲んである方。赤枠で囲んだ、手前のアレは枯れちゃってるんですよ。確かに大きいんですけど、スルーされてるんですよねー。」


マ、マジで…………?
俺が見てたの、ただの枯れた松だったの……?*2


Foursquareで確認すると、確かに写真は全て根元が緑色の松でした。根元が緑色になっていない普通の松と変わらない写真は一つだけ。僕がチェックインした時に撮影した写真です。



俺が感じた松の生命の息吹とはなんだったのか。
ボランティアの時に感じたものとは全く別種のもやもやを感じながら、バスは次の目的地、陸前高田小学校に向かうのでした。
次以降の記事に続きます。


それでは、また。

*1:この辺は後でまた書きますが、7万本の松を復活させるプロジェクトがあります。7万本の松を植える準備のボランティア|岩手県陸前高田市|情報レンジャー|助けあいジャパン をぜひご覧ください。

*2:でも考えてみたら、枯れた松があんなに残ってるのはそれはそれですごい気がします。