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今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

静寂の無い詩仙堂

 先週、夏期休暇を取得したので関西方面に旅行してきた。何を書こうか迷った末、ここではあくまで雑記として感じた事だけを。

 1日目:京都 詩仙堂丈山寺

 高校の現代文の授業で「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句の解説があった。蛙が水の中に飛び込む音なんて、非常に小さい音。つまり、この句が意味するのは、状況として静寂に包まれている状態である、という話。この俳句は、本当に額面通りに受け取っていたのでどうして有名なのか良く分からなかったけど、それだけにそもそもの状況を説明しているこの説は心に残った。もちろん他にも解釈はできるけど、それでもこの解説はシンプルで腑に落ちた。
 その流れで、京都に行ったら詩仙堂というところに行くといいぞ、静かだからという話を先生がした。
それ以来、京都に行ったら必ず行く場所になっている。


最初訪れたとき、1回目は何か事件があったのか、上空にヘリが飛んでいて全然静かと思えなかった。
2回目に訪れたとき、観光客が恐ろしく多くて全然落ち着けなかった。
3回目に訪れたとき、人こそ少なかったけど雨が結構激しく、庭園を歩く事を諦めた。
そういうわけで、今回が4回目、今度こそ、と思いながら。



訪れたのは昼過ぎ。作務衣を着ているからマシとはいえ、うだるような暑さ。拝観料を払い中へ。


堂内より。

観光客はそれほど多くなく、騒がしくない。上空は青空、ヘリも飛んでいない。
静寂を邪魔する要素は、ある。
蝉だ。



今が夏だという事を忘れていた。今回も静寂は得られなかったな、と思い、諦めて庭園に。



写真は去年の12月に訪れたものだけど、せっかくなので。

土曜日曜も家で仕事をしている事が続いてすっかり心身ともに余裕が無くなっていた。そして来た京都でも、得たかった静寂は得られなかった。
静寂を得られるのはいつになるのだろう。
旅行は始まったばかりなのに、すっかり気落ちしてしまっていた。


あまりにイライラしていたので、暑くて汗がダラダラ流れるのもかまわず、庭園をひたすら歩いたり堂内に戻ってまた何もしないで座った。思い浮かぶのがこれからの仕事どうしようということばかりで、その事自体に思い当たってさらに憂鬱になった。相変わらずミンミンゼミはうるさく鳴いている。


静寂を諦めて、何もしないでいた。ずっと蝉の鳴き声を聞いた。
蝉が成虫になったら、生きられるのはせいぜい1週間程度。成虫になったら、鳴いて、交尾して、死ぬだけ。シンプルだ。自分はどうだ。積もりまくった悩みに押しつぶされそうになってる。鳴いてもいないしろくに交尾もしていないし死んでもいない。鳴きたい。でも「鳴く」ためにはどうしたらいいんだろう。何か自分は怖がっているんだろうか。
ミンミンゼミはまだ鳴いている。


それからは白昼夢に近い感覚だったと思う。父親との会話、古本屋での思い出、大学近くの定食屋、ソーシャルメディアでのやり取り、英語での読書。それらのことが浮かんでは消えていった。自分がやったこと、やらかしたこと、やり遂げた事。生きていく事が一直線でシンプルだったら楽なのに、と思うと同時に、一直線だったら思い出も無いまま死んで行く気もした。どちらが幸福なのかはよくわからない。

iPhoneのアラームをセットしていたのは正解だった。人と会う約束をしていたので、iPhoneが震えなかったらずっと座っていたかもしれない。


結局静寂は今回も得られなかった。でも考えてみたら、静寂をここまで求めていって失望したのは、今回が初めてだったと思う。去年の冬は雨が結構激しくて寒かったけど、静寂を邪魔されたなんてこれっぽっちも思わなかった。まあ仕方ない、という程度の感想で、失望どころか(寒いけど)これはこれで風情があるな、と感じていた。求めるなら手放せ、というのは禅に関する本に出ていたけど、今回自分は全く逆の事をやっていたらしい。静寂を求めて失っていた。



詩仙堂を後にして、タイミングよく来たバスに乗って京都駅へ向かった。ミンミンゼミが鳴いている様は実に夏らしくていいな、と思った。



京都に行く予定は今のところ、無い。しかし、京都に行く時にはまた詩仙堂を訪れるつもりでいる。