あまりにもひどいコピーを見てしまい、燻りが収まらない。
Twitterでは、このコピーの(アニメか?)という部分がアニメを馬鹿にしていると捉えられて炎上している。その後、ネットニュースの取材では「そういう意図はなかった」と釈明しているが、言葉を用いる文学に関わる組織・人々がそういった意図と捉えられないように言葉を書くことができない時点で、コピー自体にも説得力が無くなってしまう。
このコピーとネットニュースの記事を読んでも、燻りは収まらなかった。なぜこんなに燻っているのか考えた。
結果、「アニメどころかいろんな芸術作品を馬鹿にしているから」という考えに至った。
「目に見えるもの」を軽視するコピー
以下、コピーを引用する。*1
文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ?(アニメか?)
読むとは想像することである。
世の不条理。人の弱さ。 魂の気高さ。生命の尊さ。男の落魄。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。
想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない。
想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。
そんなの嫌だね。つまらないじゃないか。
繰り返す。人生に、文学を。
(一年に二度、芥川賞と直木賞)
何が燻っているのだろうと読み返して、
「文学を知らなければ、目に見えるものしか見えないじゃないか」
という節に引っかかった。なぜ引っかかったか。読むとは想像することである、と書いた後で、
「想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない」
と続いてるからである。
文学を知らなければ、「目に見えるものしか見えない」「目に見えるものしか知るようがない」。
このコピーから透けて見える内容は何か。「目に見えるもの」への軽視である。コピーを見返しても、目に見えるものしか見えないことは想像の可能性を狭めるとでも言いたげな内容である。炎上のきっかけは、コピーの途中の(アニメか?)というフレーズだが、そもそも「目に見えるもの」を軽視しているのだから、アニメに限らず映画などの映像作品、絵画や彫刻などの芸術作品に対する態度も推して知るべしと思わざるをえない。もっとも、文字を見なければ文学も力を発揮できないはずなのだけど。*2
「目に見えるもの」は文学に力を与える
そもそも文学は、「目に見えるもの」との関わりは決して浅くない。童話の絵本のように物語と挿絵がセットとなるに限らず、聖書などの神話は様々な絵画・彫刻に表されてきた。また、文学の一部は戯曲という形で生まれ、演劇となり舞台上で実在の人間によって演じられてきた。
「目に見えるもの」には芸術が埋まっている。そして「目に見える」芸術は、文学を下地とすることで、文学の力を強くさせる。それにも関わらず、「目に見えるものしか知りようがない」とはどういう了見なのだろう。何故、目に見えるものを大事にしないのか。
また、コピーの最後の「想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。」に至っては、そもそも、「自ら思い描く人生」自体が想像の範疇だ。他人の思い描く人生は、追体験こそできても、それを「選びとる」ような状況があるとでも言うのだろうか。そんなはずはない。自らが選びとる人生は、どのような影響を受けたとしても、結局は「自ら思い描く人生」に他ならない。
これらのことを踏まえた上で「あなたが出会うべき本がある」というフレーズを読んだ。
冗談じゃない。
真っ先にそんな感想を浮かんだ。
「目に見えるもの」の価値すらわからず、自らの思い描く人生を否定しておいて、「あなたが出会うべき本がある」。こんなお仕着せ感満載の本を読むなんて真っ平御免としか思えない。私は絶対に参加したくない。
本キャンペーンは日本文学振興会だが、なぜこんな、小学校の読書感想文の課題のような、読書嫌いを増やすようなキャンペーンを実施しているのだろう。どうしてこんな、文学以外の芸術を貶して、文学の面白さ・力強さ・猥雑さ、そういった文学の力を矮小化するようなことをするのだろう。
書いてて暗澹たる気持ちになってしまった。
今年の新潮文庫、夏の100冊キャンペーン。
キュンタのストーリを読んで、救われた気持ちになった。
新潮文庫があって良かった。