今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

クリエイティブの可能性 春合宿(2) 名前をつけてやる

前回の続き。
アイマスクのお陰でバス車中では思ったよりちゃんと寝ることができました。


寝ている体を起こしてバスから降りました。
そこは紛れもなく被災地でした。


2日目 7:00 南三陸防災庁舎


三陸の防災対策庁舎。職員が最後まで残って市民にアナウンスを続けたと聞きました。



津波の凄まじさを感じたもうひとつの風景。病院のビルに船が乗りあげています。



瓦礫だらけの地面に落ちていた芽かぶ。他にもめんつゆや化粧品のチューブなど、この辺りにはたしかに人が暮らしていたんだと思わされる物が沢山あり、悲しくなりました。



ちょっとこの写真だとわかりづらいかもしれませんが、奥の方に建物があります。あそこまで津波の被害は及んでいたようです。つまり、もし自分たちが今ここにいる瞬間に、あの時と同じくらいの地震が起こったら、すぐに近くの高い所を見つけて上がらないとあれだけの津波に呑まれるということです。*1自分たちがいるのは、普通の場所ではないのだと感じました。




海岸近くには瓦礫が積まれていました。近くに行ってみると、こんな感じです。



その近くには、機関車が転がっていました。展示用なのか実際に走っていたのかはわかりませんが、車輪は転がり大破していました。


前回石巻に行ったときはここまでひどい場所には行かなかったので、ショックを受けました。確かに防災庁舎はテレビやネットの記事で見たことはありますが、実際に見てみるとその衝撃はディスプレイ越しに見る映像の比ではありません。360度、荒涼とした風景が広がっています。自分が何か取り残されたような感覚に襲われました。
しかし、僕にとって一番ショックだったのは、防災対策庁舎でも船でも機関車でもなく、その後に見たこれでした。


松原公園。ただ瓦礫が積んである場所だと僕が認識していたところは、松原公園という名前の公園でした。ここは公園だったのです。
そこにあったのは、山積みの瓦礫と無造作に転がった機関車だけ。ブランコも、シーソーも、ベンチも、ちょっとした花壇も、トイレも、ここは公園だと思えるものは何一つありませんでした。この標識を見なかったら、僕は最後までここが公園だと思わなかったでしょう。

思いを馳せられない過去

防災庁舎や打ち上げられた船や機関車を見た時は呆然としました。津波のあまりの威力に衝撃を受けたからです。
落ちていた芽かぶやめんつゆを見た時は悲しくなりました。人々は確かにここで生活をしていた、という事実を思ったからです。
しかし、あの「松原公園」という標識を見た時に感じた衝撃は、そのいずれでもなく、ある種の恐怖ですらありました。完全に松原公園というものの存在が無くなるところだった、という事実にです。
かつて、そこには防災庁舎がありました。船が海に泊まっていて、人々はそこで生活していました。この荒れ果てた光景を見た時に、そんな光景を思い浮かべた人は多いでしょう。僕もそうでした。しかし、公園があって、ブランコで遊ぶ子どもやベンチで休んでるおじいちゃん、そんな光景を思い浮かべられることはできた人は、果たしてどれだけいたのでしょうか。
思いを馳せることすらできなかったという事実に、僕は愕然としました。

名前の無い場所

あの場所はとても「ここは公園です」とは言えません。「ここは公園でした」としか言えません。そして「今は瓦礫の山です」と。津波が襲ってきて、瓦礫が大量に積もった時、「松原公園」は無くなり、ただの「瓦礫の山がある場所」になりました。きっと、そんな家や場所がこの被災地にはたくさんあるのでしょう。誰かの家だった所、何かの店だった所、それは跡形もなくなりただの「更地」になったのです。何も手がかりのない場所では想像をめぐらすことも困難になるのだと感じました。瓦礫を撤去し、何かを作り、ここは○○という場所です、そう話せる場所ができることが真の意味での復興だと、強く感じました。


この後、バスでボランティア活動を行う場所へ行きました。最初のボランティア活動は瓦礫の撤去作業でした。しかしここで、僕はかなりの徒労感に襲われることになります。また次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:コメントで認識相違の指摘をいただいたので書き直しました。ありがとうございました。