瓦礫撤去を終えた僕は心身ともに疲れていたので、バス車内ではずっとぐったりしていました。
バスは陸前高田に到着しました。バスから降りた我々に見えたのは、3・11の津波でも唯一流されなかった「奇跡の一本松」でした。歩いていけるとのことなので、下から眺めてみたいと思い、一本松に向かいました。ただ、足場は工事中で不安定な上にボランティア作業で長靴を履いたままだったので、歩きづらかったです。大きな地震が起こりませんように、と思いながら一本松へ向かいました。
奇跡の一本松
海岸には1年たった今も、津波で流されたと思われる木々が転がっていました。
一本松に到着。写真が暗くてすみません。
陸前高田にはもともと7万本の松があったそうです。しかし、津波でほとんどの松が流されてしまいました。その中で1本だけ奇跡的に流されずに残ったのがこの「奇跡の一本松」です。もっとも、この松も海水で根が腐ってしまい、もうもたないというのが悲しいです。それでもなお、松は懸命に生きようとしているように感じられました。
この一本松は、奇跡的に残りました。しかし、それが意味することは、残りの6万9999本の松が耐えられずに流されたという事実です。流された松は、海岸近くに打ち捨てられたり、どこかの土砂の中に埋まっていたりするのでしょう。後で尋ねたところ、やはり「どこへ行ったのかは全然わからない」とのことでした。
記憶が無くなる悲しさ
もうここには、7万本の松はありません*1。ただ、復興のシンボルとしての松が一本立っているだけです。それが悲しいことだと感じました。そこにあった7万本の松とその記憶が、一気に流されてしまったように思えたからです。松原公園の表札を見た時と同じ悲しみでした。
地震と津波で破壊されたのは、人々の生命や建築物といった目に見えるものだけではありませんでした。人々の思い出や記録といった、目に見えないものも同じように破壊されていました。忘れられたり、思いを馳せられなくなっていったのだと。一本松と周辺の打ち捨てられた木々を見た時、そのことが理解できました。たまにニュースなどで被災地の人々が語っていた「忘れられるのが本当につらい」という言葉の意味は、きっとそういうことだったのか、と。
少し大げさですが、その時僕が見ている世界が少しだけ変わって見えました。ボランティア作業で疲れた体ではまだ十分に受け止める事は出来ていませんでしたが、何か大事な手がかりを手に入れたと思えました。
一本松からバスに戻ってきて、添乗員さんに一本松の側に行ったことを話しました。すると添乗員さんは、また僕の見ている世界を変えるきっかけとなる言葉をくれました。
「あ、あれ違いますよ?一本松じゃないです。」
…え?
「奇跡の一本松って、向こうの根元が緑になっている方ですよ。この写真で言うと、黄色の枠で囲んである方。赤枠で囲んだ、手前のアレは枯れちゃってるんですよ。確かに大きいんですけど、スルーされてるんですよねー。」
マ、マジで…………?
俺が見てたの、ただの枯れた松だったの……?*2
Foursquareで確認すると、確かに写真は全て根元が緑色の松でした。根元が緑色になっていない普通の松と変わらない写真は一つだけ。僕がチェックインした時に撮影した写真です。
俺が感じた松の生命の息吹とはなんだったのか。
ボランティアの時に感じたものとは全く別種のもやもやを感じながら、バスは次の目的地、陸前高田小学校に向かうのでした。
次以降の記事に続きます。
それでは、また。
*1:この辺は後でまた書きますが、7万本の松を復活させるプロジェクトがあります。7万本の松を植える準備のボランティア|岩手県陸前高田市|情報レンジャー|助けあいジャパン をぜひご覧ください。
*2:でも考えてみたら、枯れた松があんなに残ってるのはそれはそれですごい気がします。