陸前高田小学校に到着しました。
現地で待っててくれたのは、この春合宿で事前準備など裏で色々動いてくれている5人の裏部隊メンバー、そして社会福祉協議会の安田留美さんでした。
全員が集まったところで、キャンプファイヤーが始まりました。組まれた木に火が灯されるのを見ながら、もう20年以上キャンプファイヤーなんてやったことなかったなあと昔のことを思いました。
炎が落ち着いたところで、安田さんのお話が始まりました。拡声器を使っていて一部よく聴き取れなかった箇所はあったものの、僕にとってはショックを受ける内容でした。瓦礫も自分たちの財産であるという話、そして外からの援助を受け入れなかった理由についてです。
瓦礫も遺体も財産
安田さんが語っていたことで、鮮烈に印象に残ったフレーズです。きっとこの日のボランティア活動をする前にこの言葉を聴いてもピンとこなかったでしょう。しかし、南三陸で見たインスタント食品やファミコンソフト、酒瓶などを見た後ではこの言葉が何を意味するのか、ぼんやりですが感じ取ることができました。*1そこには確かに生きている人がいて、そこにいた人々の記憶があります。だからこそ、瓦礫もまた財産なのだと。
街の復興のためには、瓦礫は必ず処分しなくてはいけません。しかし、それでも丁寧に扱いたいという気持ちが感じられました。ボランティア活動で、僕は砕けたガラスや陶磁器を、さっさとどかそうとぞんざいに扱っていました。この話を聴いて申し訳なく思いました。
もう一つ安田さんが話していたのは、なぜ陸前高田が当初外部からの支援を積極的に受け入れなかったのか、についてです。
四十九日を迎える前に、自分たちの手で遺体を見つけたかった。自分たちの手で見つけて、供養したかった。
いくら自分たちの手で、と言っても限界があるんじゃないか。助けを借りて早く見つけて供養しようとは思わなかったのだろうか。当初はそう思いました。しかし、この理由が、先ほどの瓦礫の話とオーバーラップした時、考えが変わりました。亡くなったのは地元の人であり、自分たちの家族や友人。その人は「自分にとって」大事な人達です。外部のボランティアやその他の団体が迅速に活動を行い発見したその死体は、陸前高田の人々にとっては大事な人々の遺体です。いくら迅速に活動を行い、その死体を丁寧に大事に扱ったとしても、そこには埋めがたいギャップがあります。
昼間、瓦礫を無造作にバケツに放り込みました。
自分がボランティアでやったのは、要するに陸前高田の人々の遺体をぞんざいに扱ったようなもんじゃないのか?
あまりに恐ろしい仮説だったので、さすがに大げさだと打ち消しましたが、なんとも言えない気持ち悪さと後悔がべっとりと胸に残りました。
暖を取れるということ
それでも、その胸のつかえは程無く取れることになります。その後、裏部隊メンバーが炊き出しをしてくれたご飯と豚汁を頂いたお陰、という極めて原始的な理由ですが*2。しかし、昼間の復興商店街で買ったロールケーキがめっぽう美味しかったり、その日のボランティア作業の苦労を合宿メンバーと分かちあったり、その後改めて陸前高田の復興について安田さんからお話を伺わせていただいたり、少しずつ体が心身ともに暖まってくるのを感じました。今回の合宿のテーマの一つに「感謝」があったのですが、この時感覚として理解できました。一人では暖まることができないからです。
陸前高田小学校を後にし、ようやく泊まる旅館に到着しました。そこで第一回目の「ダイアログ(対話)」が行われたのですが、今回のボランティアをテーマにしたものであまり明るい内容ではありませんでした。*3
ダイアログを終え温泉に入った段階ですっかり体が休むモードになっていたので、有志の飲み会もすぐに切り上げて僕は寝ました。布団てあったけーなー、と思いながら就寝しました。
次以降の記事に続きます。
それでは、また。