今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

感情の折り合いの付け方と他者との関わり方について (2) 今週のお題特別編「好きなブログ」 #はてなブログ は3周年

 前回の続きなのですが、はてなブログに移ってからこの手のお題について書いたことがありませんでした。せっかくなので書きます。

 

身体アプローチのきっかけとなった「Hidefumi Otsuka Blog」

 好きなブログ、一つめは「Hidefumi Otsuka Blog」。会社を辞めて、現在は世界一周しながらロルフィングを学んでいる大塚さんのブログです。


Hidefumi Otsuka

 好きなブログに挙げた理由は、記事の中に常に内省があるからです。特にロルフィングやヨガなどのブログ記事は、思考というものはそもそも身体的な行為の一部であることを思い出させ、私が身体へのアプローチへ強い興味を抱くきっかけとなりました。気分が重くなった時は寝る、お香を焚く、座禅をするなど身体的なアプローチをかけるのですが、それに気付いたきっかけはこのブログだったりします。ありがたや。

 身体へアプローチするためのボディワークはまだ興味があるという段階から抜け出せていないのですが、将来的に取り入れていきたい内容の一つです。とりあえず、日々の坐禅をしましょう。

 

ハズレなし。「私の時代は終わった。

 好きなブログ2つ目。加藤はいね女史( id:ikkou2otosata0 )「私の時代は終わった。」心が疲れている時に読みます。ハズレのないエントリー。必ず笑えます。とりあえずこの辺とかいががでしょうか。


風よ!炎よ!雷よ!我が剣となって、この悲しみの大地に処女を貫け!ゴゴゴゴゴゴッ! (33歳) - 私の時代は終わった。

 

 エントリーをよくよく見たら下ネタが多いのですが、はいね女史の溢れんばかりの独自フレーズにより下品さが覆い隠され、はいねワールドが展開されていきます。

もう今シーズンの危なげの無さつったら、私の下半身あたりでもマー君が投げてんじゃないかってくらい。

 

 ところでね、私ね、33年近く、誰にも足なんか開いたことなかったからね、今回が初開きだったわけです。ちょっとした海開きと言ってもいい。

完全に海に入る前の準備体操を怠ったわー。

  私は出来事に頼らず、独自のフレーズを掛け合わせる事によって笑いを生み出していく加藤はいね女史の文章が大好きです*1。大好き過ぎて嫉妬すら覚えます。今の出来事や感情を伝えるために、どう面白おかしく表現してやろうか。そんな自分の企みをせせら笑うかのような破壊力のある文章を書ける人がいるとは思いませんでした。

 

静かで優しい語り口「琥珀色の戯言」

 3つ目はfujiponさん( id:fujipon )の「琥珀色の戯言」。このブログ、まず書評が素晴らしいです。


突然、僕は殺人犯にされた - 琥珀色の戯言

 本の紹介と自分の意見のバランスがとても良い上に、その意見も静かで書評自体が一つの物語のような印象を受けます。書評を読んで「この本面白そうだな」と思うことはありますが、「本当にこの書評書きたかったんだな」と感想を抱いたのはこの方のブログだけでした。

 

モノを書くことは何者にもなれていないことの何よりの証左

 同ブログからエントリーをもう一つ紹介。


「きっと何者にもなれない」あなたへ - 琥珀色の戯言

 ブログ主のfujiponさんの職業は医者です。一般的に「医者」といえば立派な職業であり、苦労も多いけど収入もやりがいも多い「何者かである」こととは無縁の存在であるように思えます。しかし、fujiponさんは「何者かになれていない」事を吐露します。

 

医者というのは、世間的にみれば、「ご立派な職業」のひとつだろう。

 しかしながら、世の中はそんなに甘くはない。

 医者の世界のなかで、他者とは代え難い「何者か」になるのは、本当に難しい。

 この世界には「呼吸をするように勉強する人たち」がいるのだ。

 

というか、医者という職業だけで、「あなたは何者かになった」と評価してくれる人もいるけれども、当事者にとっては、そういうものでもないんだよなあ。

 医者にまでなっておいて何者でもないってどういうこと?という疑問もあるかもしれませんが、なんとなく分かる気がします。医者に限らず、そのステータスを前提とした世界では、それ自体は何のアイデンティティにも成り得ないからです。東大生然り、弁護士然り、電通マン然り。

 

 fujiponさんは、続いて写真と文章について「何者かになるはずで、なれなかった人たちの最後の受け皿になりやすい」と書きます。少し長いけど引用します。

  

 「写真」とか「文章」というのは、「何者かになるはずで、なれなかった人たち」の最後の受け皿になりやすい趣味だ。

 いくらなんでも、僕の年齢になって、「プロ野球選手になって、カープを優勝させる」とか、「政治家に転身して、首相になる」なんていうのは、妄想でしかない、それは理解できる。

 ところが、写真とか文章というのは、「プロとアマチュアの違いが、(素人には)わかりにくい」だけに、「いまからでもできるかも!」と思いこみがちなのだ。

 僕にも、「夏目漱石がデビューしたのは、30代後半だった」などという特例に希望を見いだしていた時期がありました。

 ところが、その気になって少し勉強をはじめてみると、その世界の奥深さに愕然とすることになる。

 作家の文章をプロ野球の1軍とするならば、ブログの文章は2軍だ。

(本当は四国アイランドリーグくらいなのだろうけど、わかりやすいように今回はこれで話そう)

 もちろん、2軍ですぐに頭角を現し、1軍で大活躍する選手もわずかだが存在する。

 だが、大部分の「2軍のエースや4番」たちは、1軍に行けば敗戦処理でも打たれ、代打に出れば振り遅れて三振だ。

 そのくらいのレベルの違いがある。

 裾野が広くて、みんなができそうだと思い込んでいるというのは、裏を返せば、チャレンジャーが多いということ。

 そして、狭き門のわりには、そんなに儲かるものでもない。 

 ほとんど同意見です。実際に出版されている本の文章は、(中には本当にひどいのもあることはあるけど)下調べをこれでもかと行い、技術を駆使し、「締め切り」という制約まで設けた上でのプロの文章です。生半可な時間や力量で太刀打ち出来るものではありません*2

 

 ですが、それでいいんじゃないかなあと思います。

 

 写真にしろ文章にしろ、あるいはイラストにしろ、それは自分が何かを感じた、考えたことの表明の一部であり、それを真剣に行うことは(たとえ金銭的にはプラスにならなくても)自分の人生を豊かにする行為なのだと。自分が対面で話をすることが苦手なので、それ以外のコミュニケーションの手段である「書くこと」により比重を置こうとしていることは認めます。それでも、自身の感情の輪郭を明らかにすること、ひいては他者に対する態度の表明を表すために写真・文章・イラスト・音楽といった表現手段を用いること、鍛えることは全く良いことだと信じています。

 

 前述のブログ記事から再度引用。

 僕がこの年齢になって感じるようになったのは、「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。

 僕が村上春樹さんの作品の登場人物に惹かれるのと同時に、「浮世離れしている」と批判したくなるのは、彼らはみんな「何者でもないけれど、自分のやるべきことを、淡々とやっている人」であり、「それを自分で受け入れている人間」だからなのです。

 

 この辺の心情はまだ良く理解できていません。「自分のやるべきことを淡々とやること」というのは、そもそも「自分のやるべきことは何か」がわかってないとできないわけで、それを求めてやっぱり足掻くしか無いのでは、と思っています。

 

 もうしばらく、文章を書く日々が続きそうです。

 

*1:もちろん、はいね女史に発生している出来事そのものもかなり面白いんですが。

*2:とはいえ、小銭を稼ぐために電子書籍を販売したりと、これまでとは別のビジネスモデルも生まれてきているので、それはそれで面白いなと思います。