定期的に「オジサンLINE」が話題になっている。
twitterとかでたまに流れているので目にするけど、胸焼けがする文章だと思う。年齢と性別でカテゴライズすれば、僕は間違いなく「オジサン」に入るからこの手の文章を書いていてもおかしくないのだけど、書いたことが無い。もし書こうと思っても書ける気がしない。理由は、どうしても馴染めないからだ。
文化に乗れなかった学生時代
オジサンLINEは文面や内容などから様々な分析がされているけど、ほぼ必ず「絵文字」「顔文字」が要素として入る。PCからテキストベースでネットをやっていたので、顔文字は抵抗なく使えるけど、絵文字になると使い方がわからないし、デコり過ぎて読みにくいとすら感じてしまう。ガラケーは持っていたけど、友達も少なく持つ理由があまりなかったので、携帯を買うのも周囲に比べてだいぶ遅かった(携帯を買った一番の理由は、「就職活動で便利だから」だった)。PCに比べて機能も少なくキーも押しにくいと感じていたため、メール機能も対して使わなかったし、iモードなどガラケー特有の機能も殆ど使わなかった。 *1
結果として、絵文字で会話するような文化を身につけることは無かった。馴染めなかった、という方が正確かもしれない。僕の10代20代は小室サウンドやコギャルが街を支配していた、らしい。「らしい」というのは、僕はこれらの文化に興味も持てなかったし、怖いとすら思っていたからだ。だから、生でコギャルを見たことが無いし、小室サウンドも大して聴いていない。かといって、オタクやサブカル文化にどっぷり浸かっていたかといえば、そうでもなく、エヴァも見ていない、完全自殺マニュアルも読んでいない、ということで、僕はただ一人で本を読んでゲームをしていた。
僕は、どこの文化圏にも属することができなかった。
LINE文化の中で浮くガラケー文化
おはようとかの挨拶をメールでするのが不思議だった。
(わざわざメールでなんでそんなにやりとりするんだろう?)
今ならわかる。「コミュニケーションのためのコミュニケーション」だからだ。この目的はコミュニケーションを取ることそれ自体であり、内容は副次的にすらなることがある*2。コミュニケーションにはこういった形態があるのだということがなかなか理解できなかったけど、今ならこの文脈でガラケー文化が花開いた理由を説明できると考えている。「電子メール」という非同期なツールはコミュニケーションのタイミングというコストを大きく減らし、「絵文字」という漢字以上の表意文字は、文字のコストを減らした。そして、絵文字によるメールのやりとりは、当時の若者の間で「コミュニケーションのためのコミュニケーション」として成立していった。
細かいところは違うけど、LINEは「コミュニケーションのためのコミュニケーションを取るために特化したツール」だと感じている。スタンプは定型的なやり取り、意味合いを含むものが幅広く売られているのは偶然ではない。コミュニケーションを取るためには文章を書くよりスタンプを送り合うほうがスピーディで回数を増やせるからだ。
そんなスピーディなスタンプ文化には、絵文字は情報量が多過ぎて馴染まない。ワンタップで遅れるスタンプとは、スピードも情報量も合わない。結果として、絵文字文化はLINEの中では「オジサンLINE」として異質なモノ扱いされていった。
以上は、ガラケー文化を始めとして何の文化にも、何の時代にも乗れなかった僕の感想である。絵文字だらけのメールをしている学生時代の同期に、メールをやり取りする相手がいないことを馬鹿にされたことを覚えている。今、もしその同期がこういう「オジサンLINE」をしていたら、僕は暗い喜びを覚える。
「お前は時代に乗れなかった僕を馬鹿にしていたけど、今度はお前が時代に乗れなくて馬鹿にされる番だからな!!」
しかしその一方で、どの文化にも属せず、時代と生きた感覚の無い僕は、そんなオジサンLINEが眩しくも見える。あそこには、かつて時代を生きた、文化を生きた感覚が残っているんだろうな、とも思う*3。
時代に乗れない日々から20年以上が経った。来年で平成が終わるにあたって、これからTV番組などで「平成を振り返る」特集がされるようになったら、きっと時代を生きなかったことについてのしこりをまた感じるのだろう。