今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

2020/4/17 時間が取れたので「ソロ活女子のススメ」を再読する

 午前中は会議目白押し。何も作業ができずに潰れる。もっとも会議自体は有益で、いずれの会議も予定時刻より早く終わった。最初に議題を決めて検討する資料を渡し、後は自分がリードできるという条件が揃えば、会議はちゃんと進む。会議は始まってからじゃ遅くて、会議の8割は事前準備なんじゃないかと改めて思う。話す内容を事前に整理するのは大事、というのは当たり前のことだけど、それを忠実に守るときちんと成果ができるのだなと感じ入る。

 

  昨日の人狼スリアロチャンネル「しずぽんの朝井麻由美への道」を視聴してて、「ソロ活女子のススメ」のレビューを途中まで書いてて止まっていたことを思い出す。

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   結果的に時間もできたし、「ソロ活女子のススメ」を再読する。以下、書きかけだった内容も含めて再構成したレビュー。  

ソロ活女子のススメ

ソロ活女子のススメ

 

  本書はwebサイト「レッツエンジョイ東京」の連載記事をまとめて再構成・加筆したものである。第1章と第2章は書き下ろし記事で、

  • ソロ活とはどういうことか
  • 実際のソロ活動事例について
  • 『1人が恥ずかしい』という自意識にどうやって立ち向かうか

などの、ソロ活の入門編とでも言うべき内容となっている。また章間には、ソロ活が恥ずかしいと思った時の口実として使える「ソロ活の言い訳」というコラムが挿入されており、全体を通して「いかにソロ活の入り口に立ってもらうか」を意識した内容になっている。

この本はこれからライトにソロ活動やってみたいと言う人も読んでくれると思うから、あまりネガティブな事は書かないように」と担当の編集者さんから釘を刺されている。

(朝井麻由美著「ソロ活女子のススメ」大和書房刊 P.21
※以降、特に注釈がない場合は本書からの引用とし、ページ番号のみ記載する)

  Web連載記事をまとめたという意味では、著者の前著「ぼっちの歩き方」と同じだが、前作よりターゲットも含めて記事の編集・構成が練り直されており、前著とは別物に近い内容になっている。これは出版社が変わったことによる影響だけでなく、「ソロ活」というコンセプトをきちんと定義したいという著者の意向もあるのだろう。

 

前著とスタンスを異にする宣言としてのソロ活

  前著では「ぼっちの歩き方」というタイトルからも想像できる通り、多少の自虐も交えながらユーモラスにひとり活動を紹介していたのに対し、本書では「ぼっち」という言葉はほとんど出てこず、自虐としての活動紹介の趣はない。これは、担当者から釘を刺されたからというだけでは無く、著者自身の「一人で活動すること」に対するスタンスの変更が影響している。 

 

  前著では著者は「ぼっち」という言葉を正面から受け止め、ぼっちの生きる世界を広げようと宣言している。

  世間での「ひとり」の立場は弱い。「ぼっち」と言われ、ネガティブな扱いをされることも少なくない。本書では「ぼっち」という言葉をポジティブに使っているが、元来「ひとりぼっち」からの派生である「ぼっち」は基本的にはネガティブな意味で捉えられる言葉だ。私はぼっちが胸を張って生きる意味を考えたいのだ。キリスト教を布教したザビエル、黒船で開国したペリー、ぼっちの生きる世界を広げた朝井。教科書に描かれる準備はできている。

 (朝井麻由美「ぼっちの歩き方」P.2~P.3)

 

「ぼっち」の歩き方

「ぼっち」の歩き方

 

 

  しかし本書では「ぼっち」という言葉ではなく、「ソロ活」という言葉を使う。

みんなでワイワイしている輪の中に入りたいけど入れないから、ひとりで過ごす惨めなわたくしめござい、といったスタンスで書くことが多かった。そのほうがみんなから面白がってもらえるはず、というのもあったし、私自身、特に深く考えずにそういうものだとも思っていた。けれど、ある時気づいたのだ。自虐というのはそもそも、今自分が置かれている状況が間違いである、と思っているときにするものなんじゃないか、と。

(P.18~19、太字は引用者によるもの、以降同じ)

   自虐という行為の本質は、自分自身の価値観の否定である以上に「世間(既存)の価値観の肯定」に他ならない。もし一人で過ごすことを自虐風に紹介してしまうと、「自分自身の置かれている状況は寂しいことであり、悪である」という、これまでの価値観の上に立つ、「間違っている活動」という前提に立ってしまう。これではいくら一人で過ごすことを世間に広めようとしても、効果は期待できない。だからこそ、著者は自虐を止め、「ひとり」を肯定していく。 

集団行動やリア充、みんなでいること、絆、視野、仲間、そういったものを否定するつもりは全くない。それらに馴染めるのならば、それらをよしとできるのであれば、社会で生きやすい事は間違いないからである。けれど、うまくなじめないのに、無理して合わせているとしたら、それはとても不健康なことだ。自分がそういうものとは相容れないと認め、ぼっちを謳歌する方向に舵を切った今、私はとても生きやすい。 
 (朝井麻由美「ぼっちの歩き方」P.164~P.165)

私は単純に、ひとりでいることを肯定されたかったし、肯定したかった。ただシンプルに「ひとりが好きだ!」と胸を張って生きてることに決めたら、なんだか憑き物が落ちたようにとてもスッキリしたのだった。 (P.20)

    一人でいることを肯定するため、著者は「ぼっち」という言葉を使い続けることの限界を悟った。そこで著者が行ったことは、「ぼっち」の再定義ではなく、「ソロ活」という言葉を新たに作ることだった。

 

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「ビジネスぼっちだろう」と言う人は、おそらくは「お前はたいしたことない! 自分のほうがぼっちだから!」と言いたいから、そう言ってくるのだと思う。それも否定しない。その人の中の主観では、そうなんだと思う。ランキングなんて誰にもつけられない。 

   著者は「ぼっち」という言葉やそれを取り巻く社会と格闘するのを止め、訣別したのである。

 

不満:写真がない

  本書に不満があるとすれば、ソロ活の写真がカットされていることである。本書のコンセプトが「ソロ活とは何か」を掘り下げるためのものなので、構成のコンセプトから写真はカットした方が良いだろう、と言う判断があったのか、実情はわからない。ただ、ソロ活動を布教するには写真があった方が良いと思われる。一人ハロウィン、一人クリスマス、一人リムジン、一人たこ焼きパーティー。

 

www.enjoytokyo.jp

  Web記事はこのように写真付きである。特に一人クリスマスや一人たこ焼きパーティーはは著者の朝井氏が一人で飾り付けを行ったり帽子を被っている様が面白く、カットをするには惜しい素材である。

www.enjoytokyo.jp

  一人バーは、著者が「バーは社交場であり社交しなければならない」という思い込みから解き放たれ、バーを「一人で行っても問題ない場所」に置き換えるソロ活屈指の名記事である。まだ日の明るいうちからバーに入り、日が落ち、カクテルと滲んだ夜景のカットで締めているのが実に趣深く、一人バーとして正しく締めている。

  本書でも一人バーは紹介されているが、記事が再構成され写真がカットされているため、元記事の鮮烈さが無く、一人バーは魅力的なのだと訴えかける力が元記事と比べて足りない。

 

  本書で紹介されているソロ活については、一度レッツエンジョイ東京の記事を参照することを勧める。

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書きかけレビューから1年経った

  この書きかけの記事から1年が経った。コロナウイルスにより、世界は一変している。

  レビューを書いていた当時、「世界は分断されている、分断が増えていると耳にする機会が多くなってきた」と感じていた。トランプ政権によって白人と黒人が分断された、貧富の差による分断が顕著になった、などなど。

  今、「分断」という言葉はより重くなってきていると肌で感じている。政権の支持不支持、経済を優先させるのか・医療を優先させるのかのコロナに対する態度。単純な二者択一では測り切れないことも少なくない。しかし、その選択が対立を生み、人とのつながりを断ち切る働きになり兼ねないと心配している。

  「分断」が一概に悪いわけではない。しかし今のSNSで見えている分断は、その分断となる原因が終わった後も、つながりが修復できるように見えないと感じてしまっている。そもそも、物理的につながることが困難になって居る上、この状況がいつ収束するのか見通しは立っていない。最悪の場合、我々は一人になることを覚悟しなければならない。社会的な分断だけでなく、自分自身・親しい家族にコロナによる病が襲いかからないと保証は無いからである。

  「一人」という言葉は、より切実な重みを持って我々に降ってきていると感じる。

 

  ソロ活村に住まう民にしてみれば、予定が何も入っていない休日が降って湧いたように現れたら、それはもう村をあげての盛大な祭りが始まる合図。宴じゃ宴じゃ、と全力で大喜びするところである。

  行こうと思っていた美術館に行くもよし、観たかった映画を観るもよし。1人で過ごせる休日は、自分のやりたいこと、好きなことのストックをここぞとばかりに引っ張り出す大チャンスなのだ。

  そこで重要なのが、自分の好き嫌いの解像度。普段から解像度上げておくのはソロ活を楽しむ鍵の1つであり、もっと言えば、人生を楽しむコツである。(P.26) 

 

  著者の意見に同意である。

  現在、緊急事態宣言が出ており、美術館や博物館・映画館は休止を余儀なくされており、ソロ活村の住民も苦しいのは間違いない。それでも、自分の好き嫌いの解像度を上げておけば、苦しい状況でも何か好きなことを見つけることや、嫌いなことの回避がより高い精度ででき、内部的なストレスの軽減にはつながる。

  インターネットやテクノロジーには、繋がる力がある。でも、コロナウイルスによる外出の自粛やそれに伴う社会不安で、我々は一人で居る機会が明らかに多くなった。それであれば、一度自分を振り返って解像度を上げる活動をする、今後の人生のためになるのだと思う。

  お互い生きてまた笑顔で会うためにも。