今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

統合的な感想が書けない本 -反逆の神話 反体制はカネになる-

猫町倶楽部フィロソフィア課題本「反逆の神話」。

 本書に対する感想をなかなか書けなかった。個々のトピックに対する感想はあるが、本書全体に対する感想について述べようとすると、うまくまとめられず、どうしたものか悩んでいた。しかしそれを理由に何も書かないでいると、個々の感想も頭の中から消えて無くなってしまうので、備忘録的になるが書く。

 

   本書は570ページ近くあるが、実例も取り入れており文章自体は明快であり、詰まるところがなく最後まで読めた。もちろんこれは、「完全に理解できた・同意できた」という意味ではなく、意味の取れない内容があまり無かったというレベルの話である。裏を返せば、文章の意味は取れたが、その精査はしっかりしなくてはならない。

   本書はいわゆるカウンターカルチャーについて、結局は金儲けのための道具であると述べている。実例を見ると、カート・コバーンやニルヴァーナ、(二重の意味で)幻想的なオリエンタリズム、神秘主義への系統、環境問題と実例にはこと欠かない。実例はアメリカのみだが、日本の場合も80年代の荒れた学校、尾崎豊ブームなどを考えると首肯できる(余談だが、現在も朝日新聞などの一部ではなお尾崎豊を肯定的に取り上げており、そのことがカウンターカルチャーの実態を図らずしも現していると思う)。日本も自分探してインドなどに旅行する若者の話やスピリチュアルにハマる人々の話は掃いて捨てるほどある。これらは、現代の社会とうまく折り合いをつけられない人々の苦悩を、これまた資本主義が掬い取るために用意した道に見えてしまう。環境問題、神秘主義、グローバル化を始めとする現代社会からの反発。
  要するにこの社会は、資本主義の社会と、資本主義に反発する人々を包括した巨大な資本主義の社会で構成されているのだと読めた。

  読書会では上記に加えて、ミクロな話からマクロな話まで、本書の実例に沿った話が出てきて大変面白かった。以下は、特に印象に残ったミクロの話とマクロの話。

 

オタクの自分がチェックのシャツを着ていた理由

  「カウンターカルチャーの一形態として、『オタクがチェックのシャツを着ている』のは何故か」と話が出た。そこで、(あくまで1サンプルという前置きを踏まえた上で)実際に自分がオタクでチェックのシャツを着ていた、かつての自分の心理を思い出しながら答えた。

  まず、チェックのシャツを着ていた理由は以下となる。

  • そもそも服(ファッション)に興味がなく、調べる時間もお金も使いたくなかった
  • チェック柄であれば模様とかいろいろあって、シャツ単体で済むと思った(無地だと制服のシャツとあんまり変わらなくダサイと思っていたた。私服と制服は全然違っていなきゃいけなくて、チェックの方が制服よりも離れた感じがするから良いと思った)
  • 周りのオタクたちがチェックシャツを着ていたので別にこれで問題ないと思った
    (イケている奴らとは学校の外で接触することが無かったので、彼らがどんな服を着ているのか最後まで知らなかった) 

  一般的な服装として外れているという指摘はその通りかもしれないが、当時はチェックのシャツをカウンターカルチャーの一形態として着ている自覚は1mmも無かった。そもそもファッションに関心が無いのだから「アイツラと同じような服なんて着たくない」なんて発想は出てこない。そういった意味で、チェックシャツがカウンターカルチャーとして扱われることに違和感はあった。ただ一方で、「周りのオタクたちがチェックシャツを着ていたので別にこれで問題ないと思った」という理由は、所属クラスタや文化に合わせるという意味では、確かにカルチャー的な要素が存在しており、結果としてカウンターカルチャー的な要素として成立はしていたのかもしれない。

  ところで「服に関して調べる時間もお金も使いたくない」という欲望は、現状はユニクロや無印良品などのファストファッションが拾っており、(皮肉ではなく)商売が上手だと感じた。

 

「グローバル- ローカル」と「セキュリティ- 利便性」の綱引き

  グローバリゼーションとローカルは、「セキュリティ」と「利便性」の関係にも似ている。セキュリティをガチガチにすると利便性が失われる(何回も認証確認を求められるシステムは機密性が保たれる可能性は高いが、非常に煩雑でわずらわしく普段使いがしにくいものになる)。他方で、認証行為を薄くすると、すぐに使えて便利な代わりに、セキュリティが保たれずリスクが高くなる(キャッシュカードを入手し暗証番号さえわかってしまえば、銀行口座は他人のものでも簡単に利用できてしまう)。そういったことから、セキュリティと利便性はトレードオフの関係にあり、システムやサービスの設計においては、どこまでセキュリティを担保するか、あるいは犠牲にするかが非常に重要な観点の一つになっている。

  グローバリゼーションとローカルの関係もこれに似ている。基本的にグローバリゼーションは、利用者にとってはトップクラスの製品・サービスを安価で利用できるチャンスである。我々はグローバリゼーションの恩恵を受けて、無料でメールサービスや地図検索、ソーシャル・ネットワーキングができている。これだけ豊富な食材が近所のスーパーで手に入るのも、貿易などの成果で各国との取引をした結果である。
  しかし、昨今の頃中やロシアのウクライナ侵攻によって一気にグローバリゼーションのリスクが顕在化した。自国でエネルギーを持たない国は、供給国の世情次第で光熱費が高騰してしまい干上がってしまう。ネットサービスも同様に、サービス提供元の国と険悪になれば突然ネットサービスが何も使えなくなってしまう。多くの人々は地政学リスクを頭で理解していても、実際に顕在化することは少ないと考えていた。だが実際にそのリスクが目の前で発生してしまった以上、嫌でも地政学リスクは意識せざるを得なくなる。結果としてローカリゼーションが今後進む可能性は高い。

 

  ただ、この現象は一時的なもので、再びグローバリゼーションの流れは拡大すると僕は思う。なんだかんだでグローバリゼーションは利用者に恩恵があり、発展を促進するものだから、地政学リスクが去ればグローバリゼーションの流れは戻る。ただし、これまでのグローバリゼーションとは大きく異なる点がある。それは「『トップはアメリカである』ことに全員が同意しているわけではない」点である。2000年から2020年までは政治経済ともにアメリカが主導していたことは間違いない。しかし現在は、政治経済ともに、中国の存在は無視ができない。経済はGAFAに対応するBATH (バイドゥ、テンセント、アリババ、ファーウェイ)を有し、政治も習近平体制は(少なくとも表面上は)盤石に見えている。中国発のサービス・文化財がアメリカ側のシェアを侵食する可能性は十分にあり、次にグローバリゼーションの頂点に立つのは再びアメリカであるとは簡単に言えない。そう考えると、これまで以上にグローバリゼーションの熾烈な覇権争いが繰り広げられるのかもしれない。

 

取っ掛かりはあるものの、統合的な感想の書きづらい珍しい本だった。おそらく読書会で話をしなければ、感想は書けなかった。猫町倶楽部の同席いただいた方々には感謝している。