今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

クリエイティブの可能性 春合宿(3) 果てしない瓦礫撤去

南三陸町で防災対策庁舎を見学した後、ボランティア活動を行いました。前回一人でボランティアツアーに参加した時は体力の要らないメンタル系ボランティアでしたが、今回は瓦礫などを撤去するバリバリのパワー系ボランティアでした。


ボランティアセンターに貼られていたメッセージ。もちろんこれ以外にもたくさんありました。作業の説明を受けて荷物を運び、再びバスに乗って作業現場へ。

瓦礫と生活用品

今回の作業は、整地ができるように、近隣に住む方が瓦礫を見て心が折れることの無いよう瓦礫などを撤去するというものです。
実際に作業をしてみると、本当に様々な物が落ちていました。コンクリートや鉄線・ガラスなど、かつて建物の一部であったと思われるものから、防災対策庁舎でも見た生活用品、インスタント食品、酒瓶*1ファミコンカセット*2、もっと多くの生活用品が落ちていました。ここも津波に呑まれた場所。改めてそう実感しながら、淡々と作業をしました。

とはいうものの、パワー系に分類される作業なだけあって、運動不足の僕にはかなりしんどい作業でした。ガラスや陶磁器を拾うのはまだしも、シャベルで掘るとまだまだ瓦礫が出てくるのには参りました。また、木造の家の柱なのか結構大きな木材も埋まっていて、そういうのは数人ががりでないと掘り出すこともできませんでした。掘ればほぼ必ず何らかの処分しないといけない瓦礫や木材は出てきて、バグの多いシステムのテストをしている気分になりました。やってもやっても何か出てきて、キリがありませんでした。



我々が片付けた瓦礫の一部です。作業は午後2時半に終了しました*3。活動終了時、ボランティアリーダーの方から挨拶がありました。
「皆さんのおかげで、ここの場所を終わらせることができました。本当にありがとうございました。」
本当はもう少し挨拶があったのですが、よく覚えていません。というのは、最初の言葉がずっと引っかかってしまっていたからです。


確かに我々が片付けた瓦礫はかなりの量でした。しかし、周りにはまだまだ瓦礫が落ちていました。また、全ての箇所の地面を掘ったわけてはないので、まだまだ埋まっている瓦礫・木材は多いでしょう。それなのに、終わりというのがよくわかりませんでした。多少瓦礫があっても、この場所を整地するには十分という意味だったのでしょうか*4
とはいっても、あの瓦礫を完璧に片付けるのは不可能だということはその時の僕にも感じられました。あまりにも量が多く、あまりにも人が足りませんでした。きっと先に進むには、たとえ完璧ではなくても「これでOK」とどこかのタイミングで判断を出して進めていくしか無いのでしょう。炎上プロジェクトもたしかこんな感じだったな、と暗い気持ちに襲われました。


いつになるかわかりませんが、あの場所はもう一度訪れたいと思いました。あの瓦礫だらけの土地はどうなるのか、その後どんな結論が出てどんな街になるのか、結末が知りたいです。たとえそれがまだまだ先の話でも。


そんな決意はしたものの、その時は徒労感と作業後の疲労でずっとぐったりしていました。ボランティアセンターに別れを告げて向かった先は、今回の震災で最も被害が大きかったエリアの一つ、陸前高田でした。
次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:驚いたのは、何故か割れもせずに完全な形で残っているお酒があったことです。銘柄の名前は「古代」。土だらけのその瓶にぴったりで大笑いしました。

*2:タイトル部分が剥げてたのに、右側のイラストだけで「あ、スーパーアラビアンだ」とわかった僕はもっと評価されていいと思う。

*3:まだ活動できるという人が結構いましたが、「余力を残して終えてもらわないとボランティアとしてきてくれないので、意図的に短くしている」とのことでした。

*4:この疑問をなんであの時リーダーに聞かなかったんだろうと激しく後悔しています。

クリエイティブの可能性 春合宿(2) 名前をつけてやる

前回の続き。
アイマスクのお陰でバス車中では思ったよりちゃんと寝ることができました。


寝ている体を起こしてバスから降りました。
そこは紛れもなく被災地でした。


2日目 7:00 南三陸防災庁舎


三陸の防災対策庁舎。職員が最後まで残って市民にアナウンスを続けたと聞きました。



津波の凄まじさを感じたもうひとつの風景。病院のビルに船が乗りあげています。



瓦礫だらけの地面に落ちていた芽かぶ。他にもめんつゆや化粧品のチューブなど、この辺りにはたしかに人が暮らしていたんだと思わされる物が沢山あり、悲しくなりました。



ちょっとこの写真だとわかりづらいかもしれませんが、奥の方に建物があります。あそこまで津波の被害は及んでいたようです。つまり、もし自分たちが今ここにいる瞬間に、あの時と同じくらいの地震が起こったら、すぐに近くの高い所を見つけて上がらないとあれだけの津波に呑まれるということです。*1自分たちがいるのは、普通の場所ではないのだと感じました。




海岸近くには瓦礫が積まれていました。近くに行ってみると、こんな感じです。



その近くには、機関車が転がっていました。展示用なのか実際に走っていたのかはわかりませんが、車輪は転がり大破していました。


前回石巻に行ったときはここまでひどい場所には行かなかったので、ショックを受けました。確かに防災庁舎はテレビやネットの記事で見たことはありますが、実際に見てみるとその衝撃はディスプレイ越しに見る映像の比ではありません。360度、荒涼とした風景が広がっています。自分が何か取り残されたような感覚に襲われました。
しかし、僕にとって一番ショックだったのは、防災対策庁舎でも船でも機関車でもなく、その後に見たこれでした。


松原公園。ただ瓦礫が積んである場所だと僕が認識していたところは、松原公園という名前の公園でした。ここは公園だったのです。
そこにあったのは、山積みの瓦礫と無造作に転がった機関車だけ。ブランコも、シーソーも、ベンチも、ちょっとした花壇も、トイレも、ここは公園だと思えるものは何一つありませんでした。この標識を見なかったら、僕は最後までここが公園だと思わなかったでしょう。

思いを馳せられない過去

防災庁舎や打ち上げられた船や機関車を見た時は呆然としました。津波のあまりの威力に衝撃を受けたからです。
落ちていた芽かぶやめんつゆを見た時は悲しくなりました。人々は確かにここで生活をしていた、という事実を思ったからです。
しかし、あの「松原公園」という標識を見た時に感じた衝撃は、そのいずれでもなく、ある種の恐怖ですらありました。完全に松原公園というものの存在が無くなるところだった、という事実にです。
かつて、そこには防災庁舎がありました。船が海に泊まっていて、人々はそこで生活していました。この荒れ果てた光景を見た時に、そんな光景を思い浮かべた人は多いでしょう。僕もそうでした。しかし、公園があって、ブランコで遊ぶ子どもやベンチで休んでるおじいちゃん、そんな光景を思い浮かべられることはできた人は、果たしてどれだけいたのでしょうか。
思いを馳せることすらできなかったという事実に、僕は愕然としました。

名前の無い場所

あの場所はとても「ここは公園です」とは言えません。「ここは公園でした」としか言えません。そして「今は瓦礫の山です」と。津波が襲ってきて、瓦礫が大量に積もった時、「松原公園」は無くなり、ただの「瓦礫の山がある場所」になりました。きっと、そんな家や場所がこの被災地にはたくさんあるのでしょう。誰かの家だった所、何かの店だった所、それは跡形もなくなりただの「更地」になったのです。何も手がかりのない場所では想像をめぐらすことも困難になるのだと感じました。瓦礫を撤去し、何かを作り、ここは○○という場所です、そう話せる場所ができることが真の意味での復興だと、強く感じました。


この後、バスでボランティア活動を行う場所へ行きました。最初のボランティア活動は瓦礫の撤去作業でした。しかしここで、僕はかなりの徒労感に襲われることになります。また次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:コメントで認識相違の指摘をいただいたので書き直しました。ありがとうございました。

クリエイティブの可能性 春合宿(1) 今日と違う明日という自己紹介


4月の6日から9日まで「クリエイティブの可能性 春合宿」という2泊4日のイベントに参加してきました。やることは、平たく言えば「東北でのボランティア活動」です。ただ、趣旨はボランティアをすることと言うよりは、実際に東北に行って、その景色を見て、対話を繰り返すことで何かを感じることを主眼としています。詳しい趣旨については、今回の合宿のリーダー、野田祐機さんのブログ記事を参照いただければ幸いです。

「続けること、伝えること:1%の1歩先へ」
http://learnbydoing.jp/2012/02/22/ahead/

「一年経って被災地へ −支援をお願い致します−」
http://learnbydoing.jp/2012/03/21/tohoku/


実際、足を運び活動を行い、被災地の方々や他の参加者の方々と、そして自分自身と対話することで、今まで気づいていなかったこと、理解していなかったことが少しづつ解きほぐれていく感覚を味わいました。IT勉強会では「家に帰ってブログを書くまでが勉強会」という言葉がありますが、それに習って、何回かに分けて春合宿についてブロク記事を書いていきます。


1日目 23:00 麻布十番出発

45人参加予定、実際の参加人数45人。一人もドタキャンが出ませんでした。社会人もいるので仕事のトラブルなどで一人ぐらい行けなくなってもおかしくないと思ったのですが、全員スケジュールを合わせてきました。当たり前と言えば当たり前なのですが、結構びっくりしました。その時、この合宿は熱気に溢れたものになりそう、という予感がしました。


バスの車内で各人の自己紹介が始まりました。何を話そうか迷ったのですが、自分のぼっち気質や会話が得意でないこと、曲がりなりにも社会人なので学生に何かを伝えたい。そうを考えると、自然と話す内容は決まりました。


「皆様こんばんは。タウンビギナーと申します。社会人枠で参加しました。前回の参加者であるid:amapetasさんから熱烈なプッシュを受けて参加しました。他にもそんな方が結構いらっしゃるということでid:amapetasさんパネエと思いました。


私事で恐縮ですが、1年半前の9月末に入籍しました。その2週間後、ピンピンしていた父が急に亡くなりました。その2週間後、妹が出産と、まさに激動の1ヶ月でした。
そしてその半年後、今度は日本が激動の年を迎える事になりました。私はこの一年で、明日が今日とは全く違う日になるということを2度も経験しました。
明日が今日と同じ日であるという保証はどこにもありません。なので、経験したいことは迷わず経験した方が良いと考えています。


なんでこんな話をイキナリしたかというと、この自己紹介が、自分も含めた参加者45人全員に対していっぺんにメッセージを発することができる最後のチャンスなんじゃないかと考えたからです。なので、とりあえず一番伝えたいことを先に伝えました。とはいえ、話したいことはまだまだあるので、気軽に話かけていただければ幸いです。皆様、よろしくお願い致します。」


ひとまず言いたいことは全て言えたので自分では満足していました。しかし、その時予測していた事 −参加者全員に何か言えるのはこれが最初で最後、基本はぼっちというスタンスで参加*1、一番言いたいことは言えたので最低限の目標は達成した− は、その後の合宿の活動で様々な形で裏切られることになります。

自己紹介がひと通り終わり、参加者は隣の人と会話をしばらくしていました。
僕も会話していました。 院浪生だという隣の参加者の人と。TEDの話や彼の近況、「まとも」とか「ちゃんと」って一体なんなんだろう、諸々。多分流れるような会話では無かったと思いましたが、ポツポツと、しかしお互い話したいこと、聞いてみたいことがあって、それはきちんと噛み合っていたと思います。


要するに、自己紹介を終えた時の僕の予測なんていうものは、見当はずれもいいところでした。


三陸へと向かうバスの車内で、消灯・就寝時間の1:30頃まで会話は続きました。睡眠についてはアイマスクのお陰で思ったより眠ることはできましたが、2日目はそんな中途半端な睡眠では太刀打ち出来ないほどのイベントが盛りだくさんでした。次以降の記事に続きます。


それでは、また。

*1:白状すると、いろんな人と対話という部分はこの時ほとんど期待していませんでした。「初対面の人と」「何かの輪の中に入って」話すというのは、僕には未だに高いハードルのように思えました。