チャーハン食べたんですよ。
秋葉原の雁川*1の「豚肉の生姜焼きチャーハン」。ずっと気になっていたんだけど、近くにじゃんがららあめんがあってついついそっちに入っちゃってて行く機会がありませんでした。
値段の割には食い出もあるし、10代の頃だったら2倍を頼んでかっ込んでいたと思える味でした。ご馳走様でした。
秋葉原にお越しの際は是非。
「美味しい」「いい曲」を上手く表現できない
さて本題。
チャーハン食べてて思ったんですが、何かを食べて美味しいことを表現するためにどんな風に言えばいいのかわからない時があります。美味しさを伝えるのに「磯の風味豊か」とか「牛乳のまろやかさが生きている」とか、いろんな表現はあるのだけど、それを使うことで正確に味わいを伝えられているかと考えると、自信がありません。
こう、感動したことを表現できないもどかしさ、記憶にあるなと思ったら、好きな音楽やの話をする時と同じでした。音楽の素晴らしさを話したり書いたりするために、聴覚で味わった感覚を言語に変換する必要がありますが、どう表現していいか勝手がわからないのです。特に自分の好きな音楽はジャズ・フュージョンやテクノなどのインスト曲が多いため、「ココの歌詞がいいんだよねー」という言語に近い部分を褒めるといった方法も取れません。
見てきた絵画の素晴らしさや料理の美味しさも表現できず、しまいには「いいからこれ食え」と言いたくなってしまう。素晴らしいモノに出会えた時はもちろん嬉しいのですが、それを人に伝えようとすると全然うまくいかない、そんなもどかしさがあります。 *2
言語によって規定される音・色・雪
昔のCDアルバム(特に洋楽)には歌詞と一緒にライナー・ノーツが入ってて、「Aメロ」だの「リフ」だの、よくわからない音楽用語に四苦八苦しながら読んでました。*3 音楽とそれに対応する用語・言葉が全然わからなかったからですが、物事を伝えられない理由は「言葉を知らないから」でしょう。自分が感動したこのポイントはどう表現するのか、ベースメントとなる言葉が豊富になればなるほど適切な表現で言い表すことができるようになります。
この辺の話で思い出すことがあります。日本語には色を表す言葉が300以上あるという話と、エスキモーは雪を表す言葉を52個も有している、という話です。
日本語の色の話、正確な数は失念してしまいましたが、そこで見たのは一見すると同じに見える茶色が様々な色名で表現されているパターン写真でした。確かに何も開設がないと同じ色にしか見えないような色もある中で、それをじーっと見ると少し境目で違ってきたのを覚えています。
エスキモーの話は、この色に関連した話で、生活の身近にある素材だからそれを表す言葉も豊富なのだという文脈で語られていました。 *4
言葉によって規定される身体感覚
身近にあるから識別するための言葉が生まれたのか、言葉が生まれたから識別がより細かく出来るようになったのか。私はどちらも正しいと考えています。身近にある、微妙にこれまでとは違う感覚や概念に対して名前をつけてやり、それを使うことで他の人々の認識を共通化する。これの繰り返して色や雪の言葉は増えていったんじゃないかと推測しています。聴覚や視覚などの身体感覚やモノの見方を言語化することに成功した人が他者のモノの見方や身体感覚を変えるというのは、いわゆるパラダイム・シフトが起こっているわけで、科学の発明に近いんじゃないかと思っています。「肩凝り」という言葉によって*5肩のしんどい感覚を共有できたりするのもこれと同じでしょう。
ウェアラブルデバイスなど、コンピュータが身体と近くなって、それからどんな未来が待っているのか。最近そんなことを考えていたんですが、それに伴った言葉も生まれて自分たちの身体感覚も変わってくる。そうなった時が、本当に未来に生きていることになるのかな。そんなことを考えています。