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今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

かとうまさかずさんになった日

久々ですが、だらだらと感傷的な記事を書きます。着地点は特に考えてません。

おっさんになった日

 以前伊集院光のラジオをよく聴いていたのですが、ハガキ職人の一人に「四捨五入すると30歳 かとうまさかず」というPNの方がいました。その方の存在を知ってからしばらくすると、「四捨五入すると40歳 かとうまさかず」というPNに変わりました。当時は(確か)大学生で40歳周辺の人との付き合いも無かったので「四捨五入すると40歳」という表現は、平たく言えばおっさんを意味する言葉として解釈していました。
 そんな感想を抱いていた頃から15年が経ち、本日誕生日を迎えました。四捨五入すると40歳になります。おっさんです。

一人で過ごした楽しい誕生日

今日は泥のように眠ってたところを、ヤマトのお兄さんが鳴らすインターホンの音で、目が覚めました。

amazonからのお届け物。これを見て一気に目が覚めました。と同時に夢じゃないよな?とも思いました。
その後、軽く昼ご飯を食べて喫茶店を巡りながら、仕事をしていました。出勤こそしないで済みましたが、色々立て込んでやっておかないと追いつけない事が分かったのでやむを得ず。



エクセルシオールカフェのミルクレープを食べながらちょいプロツールを。この系列のミルクレープ、美味しいです。
夕飯はアキバのじゃんがららあめんでぼんしゃん+ご飯を食べました。もう20年近くこの店に行っています。20歳の誕生日に、ここで夕飯を食べながら一人で日本酒を飲んだのを覚えています。成人になったのだからと背伸びをして頼みましたが、日本酒はちっとも美味しいと思えませんでした。

選択肢の多寡と価値は同一ではない

去年は、当時の妻とその義理の母と三人でお祝いしました。今年は仕事をしながら一人でお祝いをしています。今の僕には、妻と一緒にお祝いをするという事はできません。そういう意味では、誕生日に取れる選択肢は確実に少なくなりました。しかし、今日の僕の誕生日は、頭がスッキリするまでたっぷり眠れたし、仕事で使うツールは無事完成したし、ミルクレープは美味しかったし、プレゼントは沢山いただいたし、久々に食べるじゃんがらは美味しかったし、沢山良かった事がありました。この良かった諸々の事を「誕生日に一緒にいてくれる彼女や配偶者がいない」という事実だけで台無しにしてしまうという事がいかに馬鹿馬鹿しい事か腹の底からわかりました。と同時に、こういうことを20代ずっと続けていた事に頭を抱えました。
選択肢の多寡は、その人の豊かさを表す何かになるかもしれません。しかし、選択肢の数が少ないからと言ってその選択肢自体が何の意味も無い物とは限りません。カードゲームでレアカード、スーパーレアカードは強力なカードになりますが、ありふれたコモン、アンコモンカードに全く使い道が無い訳ではないように*1

「あるべき姿」という幻想

 前述した通り、僕はおっさんになりました。おっさんって言うのは、世の中の事は全部とは言わなくても大体の事は把握していて若い人にドヤ顔で説明したり、若い時を主に体力の面で羨ましがっていたり、つまんないギャグで顰蹙買ったり。そんなステレオタイプ像しか持っていなかったので、自分がいざおっさんになってみるとそのギャップに戸惑っています。さっきのステレオタイプ、自分が当てはまるのかどうかさえ判断がちゃんとついていません。ただ、戸惑っていますが別にそれだけです。このおっさんのステレオタイプは別にあるべきおっさんの姿でもなんでも無く、自分が勝手に想像で作ったものだからです。
これに気付いた時、自分がしばしば憂鬱になる原因に思い当たりました。「あるべきステレオタイプ(姿)とそうでない自分へのギャップ」です。


例えば大学生の時は、サークルに入って友達作ったり彼女作ったりして飲み歩いたり、大学院に行って研究者になるんだったら、英独仏は当たり前、原著を元に他の学生と論戦を繰り広げたり。しかし大学生活を通して、そんな事は一度もありませんでした。彼女はできなかったし、研究者の道は早くに諦めて会社員になりました*2。上記を夢見て大学に入り、そうでない自分と比較していくうちに「理想像」は「あるべき姿」となって僕を苦しめました。結果、僕は大学生活をつらい思い出として認識するに至ってしまいました。


理想像は実現したらとても素晴らしい事でしょう。しかし理想像はあくまで理想像で、現実の姿に対して価値を貶めたりするようなものでは無いはずです。しかし、理想像はいつの間にか「あるべき姿」に変わり、現実を苛みました。理想と現実のギャップがあればそれは埋める努力をするだろうし、それは理想に近づいているという楽しさをもたらしてくれます。しかし、あるべき姿は違います。あるべき姿と現実のギャップは、現実を貶め価値がないと責め、恐怖にによってギャップを埋めるようにと自分を駆り立てます。そしてそのギャップを埋めるための努力はたいてい失敗に終わります。恐怖による動機から起こした行動は大抵うまくいかないからです*3
これまでやってきた事はあるべき姿になるための努力でした。恐怖による動機から起こした行動で、一応ある程度の成果を得た物もありますが、大抵はひどい事になりました。今後は、あるべき姿とは別の向き合い方をする事にします。まず、あるべき姿を少しずつ捨てていきます。確かにあるべき姿を持つ事は一定のプレッシャーを与え大きく道を外す事を予防してくれますが、『身動きできない状態にまで』自分を傷つけ苦しめ陥れるのであれば、それは捨てるべきだとはっきりわかったからです。
 

思いつくままに書いていたら結構な分量になってしまいました。もっと早く気付きたかった、もっと早く理解したかったという気持ちはありますが、今のこの状況じゃなかったらきっと理解できなかったことも多かったのでしょう。今、理解できた事を噛み締めます。
最後になりましたが、twitterやFBなどのSNSも含めて日頃からお世話になっている皆様、本当にありがとうございます。どうにかこうにかやって行けているのは皆様のお陰であると本気で思います。一人できちんと過ごして満足のいく誕生日を過ごせたからこそ、皆様のありがたさが心に染みました。


それでは、改めて今後とも宜しくお願い致します。

*1:三国志大戦を頭に思い浮かべながら書いています。久々にやりたくなったな。

*2:とはいえ、研究者は一般企業以上にしがらみなど人間関係がきついという話を聴くにつれ、人生何が幸いするか分からないと思ったりします。人間関係の構築が死ぬほど苦手な状態のままで進んだらそれこそ詰んだかもしれません。

*3:これはあくまで僕の経験則です。