「猫町倶楽部」という読書会がある。
もともとは名古屋で設立された読書会で、年間で延べ8000人が参加する一大読書会である。月一回のペースで課題本が出され、それを読み終えることが参加条件となっており、ジャンルはビジネス書や社会問題などを取り上げる「アウトプット読書会」、文学作品をテーマにした「文学サロン月曜会」、そして哲学書を扱う「フィロソフィア分科会」などがある。
僕が猫町倶楽部に本格的に参加した理由は、「フィロソフィア分科会」があったからだ。大学で哲学を専攻していたものの、哲学書という哲学書がさっぱり理解できず途中で挫折し、そのまま大学を卒業した。大学へは「研究者になるくらいしか自分の生きる道はない」と半ば強迫的な意気込みで入学していたのこともあり、その時の挫折感はひどく、人生は失敗に終わり後は消化試合のようなもので早々に終わりを告げると思っていた*1。
そんな僕にとって「フィロソフィア分科会」というのは、かつて挫折した「哲学」へ挑戦できるトライアルのようなものに見えた。社会人になってからもちょくちょく哲学書を買っては読んでいた(そして難解な本は大体挫折して途中で読むのを止めていた)僕には、とても魅力的だった。
8月と9月のフィロソフィア分科会課題本は、ミシェル・フーコー「監獄の誕生」。
フーコーについては「現代哲学の分野で名前は聞いたことがある」程度しかなく、その思想内容は全然知らなかった。本一冊に4000円以上かけるのは心理的に躊躇したけど、この際だからと勢いで買ってイベントで申し込んだ。
これを最後に、僕はフーコーに別れを告げることになる。
「監獄の誕生」は400P以上あり難解であることから、全2回(第1部&第2部・第3部&第4部)のイベントとして開催された。勢いで申し込んだのはいいものの、実際に本が届いて読んでみると、「この章の要旨は〇〇である」以上のことが掬い取れず、途方に暮れてしまった。「近代になるに従って刑罰は身体刑から隔離刑へと移行した」「刑罰はかつては祭りだったが、それは死刑囚へではなく民衆が執行者へ文句を言うことも珍しくはなかった」などの「今まで知らなかったこと」をぎりぎり理解できたかな、という程度のあやふやな理解で、これなら要約した入門書・解説書を読んだほうが良かったのではないか、と思いつつ第一回の読書会に参加した。幸いなことに、同じテーブルに刑法を専門で勉強されていた方がいらっしゃったため、「フーコーは第三部からが本番」「第一部と第二部はマニアックで、刑法の基礎を理解していないと理解は困難」など、第三部以降の読書に希望を持ったまま終えることができた。
第三部と第四部を読む前に、フーコーのガイドブックとなる本を探したところ、意外なところにガイドブックがあった。
自分の本棚である。
中山元「フーコー入門」、ミシェル・フーコー「フーコー・ガイドブック」。どちらも何の気無しに本棚を眺めていたら目に入り、びっくりしてしまった。当たり前だが、自分の本棚にある本は、かつて僕が買った本である。フーコーという現代哲学の思想を少し知りたいと思い、たまたま開催されていたフェアなどで買った本だった。おそらく10年近く前のことだと思う。
もちろん、読んでいなかった。
僕はさらに図書館で、重田園江「ミシェル・フーコー」を借りた。
僕は第三部以降を読む前に、「フーコー入門」「フーコー・ガイドブック」 「ミシェル・フーコー」の三冊から、「監獄の誕生」に関連する箇所だけをピックアップして読み、フーコーを理解しようと努めた。そのおかげで、フーコーの思想の概要はおぼろげながらも理解できた。ともあれ、これである程度ガイドラインは頭に入っているし、難解極まりない「監獄の誕生」も曲がりなりにも理解することはできるだろう。僕は、どこにも行く予定のない夏季休暇を利用して、第三部と第四部を読み終えた。
やっぱり僕はフーコーを理解できなかった。
もう少し正確に書くと、文章が理解できなかったことに加えて、僕はフーコーに感情が動かなかった。例えばアリストテレスやデカルト・ヒューム・ヘーゲルの思想に触れたときは「そういう思考のプロセスになるの理解できるな」「そうか、確かに自分の今捉えている世界はあやふやなんじゃないか」など、今の自分の立脚点の検証やモノの捉え方など、世界を捉え直すための思考のプロセスが「肌で感じられた」。フーコーには、それが無かった。
フーコーは規律や権力などをテーマに論じているが、僕にとっては規律や権力・社会構造というのはそれほど「刺さる」テーマではなかったのだと思う。前述の「ミシェル・フーコー」の著者、重田園江氏は中学の体験とフーコーの「規律権力」が同じものであったことが原体験であると語っていたが、だからこそ重田氏にはフーコーが刺さったし、僕には刺さらなかったのだろう(余談だけど、僕の中学校は刑務所のように規律が強いわけではなかったが、中の様子は囚人同士の争いにも似て荒れていたので、「学校は監獄と同じ性質を持つ、規律の場所である」というフーコーの思想は理解できてしまった)。
僕にとって「思想」とは、頭で理解するものであると同時に「肌」「心」でも理解する必要のある、身体的な対象でもあった。皮肉にも、フーコーを肌や心で理解することができなかったことで、それがよくわかった。
「フーコーは現代哲学を語る上で欠かせない人物」「監獄の誕生は読むべき名著」という意見はおそらく正解だし、否定はできない。現代哲学の研究者はほとんどがこの意見だろう。しかし僕は、監獄の誕生を読み切ったことで「僕はそうは思わなかった」と堂々と言える自信がついた。たとえ支持されなくても、理解が困難で感情が動かず、著作から思考と想像を伸ばすことができない以上、僕にとってはフーコーは「合わない」哲学者である。
僕は晴れ晴れとした気持ちで「僕はもうフーコーは読まない」と読書会で宣言し、読書会の翌日、「ミシェル・フーコー」を図書館に返した。「監獄の誕生」は書き込みをしてしまったが、関連図書も含めてメルカリに出品した。翌日、「監獄の誕生」が売れたので早速発送手続きをした。
僕はフーコーと訣別をした。
本を読み切った後に、スッキリとした気持ちで「もう読まない」と感じたのは初めての経験だった。つまらない小説を読み切った後も「もう読まない」と思ったけど、その時は罰ゲームが終わったとか、拍子抜けした虚無に近い気持ちになったりと、スッキリとした気持ちとは対極の感情が渦巻いていた。
難しくてどうしようもない哲学書に対して、ずっと「もう読まなくていい」と諦めることができず「いつかは読む」という残留思念に近い燻りを抱いていた。今回、「監獄の誕生」を読み切ったことで、この残留思念が解放されて消えた。小説や戯曲は、出来不出来はともかく「まず書き切ることが大事」と聞いたことがあるけど、それと似た理屈で、理解の度合いはともかく「まず本を読み切ることが大事」なのだろうと、今は思う。
読書会で「フーコーは読まない」と宣言した後、本棚にあったヒュームの本をめくり始めた。「人性論」は読んでいてわかったようなわからなかったような内容がずっと続いたため、途中でパタリと止まってしまい、長いこと読んでいない本だった。「希望の懐疑主義」は、ヒュームに興味があるから勢いで買ったものの、忙しさにかまけて全然読んでいなかった。
ヒュームは「ソフィーの世界」や哲学史の授業で取り上げられていて、その徹底した懐疑主義に驚きつつも*2 、因果律に対して徹底的に疑いを向ける姿勢は鮮烈で「面白い」と感じた。
僕は今年中に人性論を「読み切る」決意をした(中公クラシックスの文庫だから、正確には人性論の一部だけだけど)。読みきった後の感想はどうなるのかわからないけど、少なくともフーコーの感想とは違うことは間違いない。「まったく理解できない」という感想は抱くかもしれないが、もう一回取っ組み合ってやると感じることは予想できる。
読書はある意味でプロレスだと思った。作者と読者が取っ組み合って、作者の技を受けて読者が反応を返す。プロレスの面白さはカードによって決まることが少なくない。僕は万能なカードではないけど、せめて好きな哲学者や作家に対しては好カードにはなれるくらいの感想は書きたい。そんなことを思った。
余談だが、読書会では「この本を読むんだったら、入門書とか読んだほうが効率的だった」という意見があった。この意見には一理ある。しかしそれでも、僕は「監獄の誕生」を読み切ってさっぱりわからず途方に暮れた体験は、入門書を読んで理解する体験より価値があると確信している。途方に暮れたおかげで、僕は「フーコーはもう読まない」と堂々と言える。「監獄の誕生」を読み切る体験をしたおかげで、いつのまにか自分の本棚に読んだことのないフーコーの入門書が1冊増えている、という状況をもう作らないで済む。 フーコーに全く歯が立たなかった今となっては「読んで心から感銘を受けて、生涯何回も繰り返して読みたいと思えた」という体験ほどではないけど、「読みきったけどさっぱり意味がわからなかった」という体験も、それはそれで得難い読書体験だったと思うのである。