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今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

静養の日

 久々に遠出をせず、人とも会わずに過ごした。靴を磨き、本を読み、洗濯をし、肉味噌を大量生産し、片付けをした。こういう日が自分には必要で、長いこと取れないと心が死ぬことがよくわかった。ともあれ今日は良い日だった。

 

「ORIGINALS」を読んでる。 

ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代 (単行本)

ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代 (単行本)

 

表題の「誰もが人と違うことができる時代」の箇所はまだ読了していないので不明だけど、オリジナルをどう育てていくかという点など、事例が豊富で読み応えがある。時間を見つけて残りを一気に読了したい。

 

 ORIGINALSを読んでてインプットとアウトプットについて考えていた。

 以前、「アウトプットを目的としない学習は無駄」という言説を読んで考えを改め、なるべくどうアウトプットをするかを考えながら本を読んでたけど、果たしてコレは正しいのかちょっと懐疑的になっている。この言説は全く間違っているとは言わないけど、コレをやったところ、どうにも結論が似たり寄ったりになってしまい、ある一方向の考え方を強化するような結果にしかならない感じがした。今思えば、アウトプットをしようとして、自分の近くに無理やり寄せようとしていたと思う。

 「それはアウトプットの仕方が悪い」というのはその通りなのだけど、ではどうやれば質の良いアウトプットができるのかを考えると、インプットしたものを落ち着かせるための時間が必要になるんじゃないかと感じている。そもそも土台が貧弱ならばアウトプットしたところで貧弱なものが出るとしか思えない。「アウトプットの量をこなせば質は上がるからアウトプットすべき」という言説は、量が必要だという意味では同意するけど、量をこなせば質が上がるとは同意できない。

 

 インプットとアウトプットの間には見えない熟成期間があって、その期間も含めインプットとアウトプットのサイクルを大事にしないと、サイクルのパイプを強くできない。古典が重要視されるのは、すぐに現実にリンクしない、役に立たないからこそだと今になって思う。これは熟成期間を半強制的にとらせて、サイクルを強くする役割を結果的に担うから。そう考えると、古典もそうだし、すぐに現実の役に立つわけではない小説・物語も熟成期間を経てアウトプットすることで、質の高い、あるいはその人独自のアウトプットになるんじゃないかと思う。

  「ハリー・ポッターを読んでいる子供は差別に敏感、ハリーとかが純血主義により差別されているシーンを目の当たりにしているから」というツイートを見た。真偽は不明だけど、熟成期間を経た物語の影響と考えると、納得はできる。きっと読んだ本人も意識していない。インプットはいかにきちんと眠らせるかが大事なのだろう。

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 浅草「阿吽」の 汁なし担々麺。

 自分をねぎらう時は汁なし担々麺とビールの組み合わせがすっかり定番になった。