今日も知らない街を歩く

雑記に近い形でちまちま書いていきます。

社会のはみ出し者に冷たい世界は来てほしくない -ブルデュー「ディスタンクシオン講義」-

  猫町倶楽部フィロソフィア分科会の読書会に参加した。課題本は、石井洋二郎著「ブルデュー「ディスタンクシオン講義」」。たまたまNHKの「100分de名著 ブルデュー」を読んでいたこともあり、理解を深めるために参加し読了した。 

 
  読書会は同席された方々のおかげもあり和やかに進み大変楽しかったが、参加してからも、もやもやと考えていることがある。

「ブルデューは文化資本についての闘争について書いているけど、結局それは既存の政治・経済といった社会システムの追認にしかならない上に、(上流・下流問わず)その社会システムに乗れていない人々を追い詰めるだけの話にしかならないのでは?」

 

  ブルデューを正確に理解しているかどうかはあまり自信がないし、論の焦点が絞りきれておらず、体重の乗った論になっていない可能性が高い。それでも、このもやもやを整理するためには一旦頭の中で考えていることを書き出さ無いことには始まらないと思い、書いてみる。

 

個人的な体験が嫌っている社会に収斂されることの嫌悪

  以下は、あくまで私自身の個人的な体験である。

  中学時代、学校に全く居場所が無かった。学校は同級生・教師問わず自分を攻撃してこない人物の方が少ないと感じていたし、そんな場所では成績も上がるはずもなく、結果として家庭での居場所も無くなっていった。どこにも居場所が無い私は、避難所としてある街に遊びに行った。そこは小学校の時から好きだった街で、そこで遊ぶことはとても楽しく平和で幸せだった。そこは安全だった。


  高校時代のある日、近所のレンタルCD店でとあるアルバムを見つけた。どこかで聞いたことのあるアーティストの名前があり、気になったのでレンタルして聴いてみた。

  文字通り身体に衝撃が走った。ぶるりと頬が震えた。暑い最中、水を飲むのも忘れてずっと聴いていた。私はそれ以来、20年以上そのアーティストを聴いているし、一生聴き続けると確信している。

 

 以上は、私自身の個人的な体験である。あの街は本当に居心地が良かった。なぜあのアルバムを借りようと思ったのか、未だにわからない。「たまたまのめぐり合わせ」以上の何かを感じてすらいる。

  しかしブルデューは「稲妻のように偶然出会った」というのは存在し得ないと説明している。その理由は、家庭や学校などの社会構造や資本で規定されているから。

 

「冗談じゃねえ」

  思わず心のなかで悪態をついた。と反発したくなった。そもそも家庭や学校に馴染めず、既存の社会構造からはじき出されたからこそ、あの音楽や趣味に出会ったのに、それを「社会構造が・文化資本があったからこそ成せたこと」と規定するブルデューの視点は、感情的にも受け入れることができなかった。

  だが、ブルデューの視点は「感情的に受け入れない」で済ませられるものでは無いことも感じた。当該趣味や音楽は、家庭でも学校でも理解されず、中にはくだらないと罵倒してくる同級生すらいた。ブルデューの説明する「経済資本と文化資本のヴァリアント」は存在し、そこに当てはまっていなかったからこそ叩かれたと考えれば、説明は確かにつくのである。

  出会いについては同意できないが、その後の叩かれ方は確かにヴァリアントが存在するのでは、と理解できる。

 

  しかし、こうも思う。

「こういう構造がありそうだ、という説明は理解できる……。……で?」

 

構造を明らかにするだけでは、現状追認にしかならない

  経済資本と文化資本のヴァリアントおよびそれらの闘争は、確かに存在するのかもしれない。だが、それを明らかにして、それから何をどうするのだろう。

 

  確かに構造は明らかになったかもしれない。
  しかし、結局は現状の社会(経済資本・文化資本の両面において)の構造を追認すること以上の役割を果たせていない。私の趣味を「くだらない」と叩かれたことは「ヴァリアントが違っていたから、趣味の闘争で負けたから」ということで説明はつくかもしれない。しかし、私がなぜあの街が好きだったのか、なぜあのアーティストにハマったのかは、ブルデューの理論では全く説明できていない。

  このことから、ブルデューの理論が行っていることは「現実の追認」でしかないと考えている。そしてその結果として、(上流・下流問わず)「ヴァリアントにプロットできない外れ値」の人々が、より生きづらい社会になってしまうことのではないかと危惧している。

 

  ブルデュー自身は、趣味について闘争が発生すると述べているに過ぎず、何が上等・善で何が下等・悪かと論評をしているわけではない。また、ヴァリアントも絶対的なものではないとも述べている。実際、地域や自体によってヴァリアントは変わる可能性が高い。しかし、このヴァリアントを規定すること自体が、「外れ値の人々」の生きづらさを強めてしまうのではないだろうか。

 

  なぜ私はこんなにブルデューに反発するのだろうとふと思った。100分de名著を読み返したところ、ヒントがあった。第2回の講座で

「ブルデューの根底には、すべてのものは他のものとの関係性の中で意味を持つという構造主義的な発想があるということです。」

と述べられていた。おそらくここが私の感覚と合わない根底的な理由かもしれない。私にとって趣味とは、当初は「(嫌な社会との)関係性を切り離すための手段」であり「自分を慰め勇気づけるための手段」だった。別の人間・社会との関係性の構築はあくまで二次的な話である。だからこそ、関係性を無理やり接続しようとするブルデューに反発を覚えるのだろう。

「勝手に接続するな!!」

ブルデューに対して言いたいことを一言でまとめると、この通りである。

 

※個人的な体験について、具体的な名詞を出していない理由がまさにこれである。具体名を出すことで「この曲を聴いている」「趣味でこういうことをしている」という「闘争」の場に引っ張り出されるくらいだったら、詳細を表明せずに黙って一人で楽しんでいた方が良い。私が趣味や音楽を楽しむにあたっては、何の支障も無い。
  100分de名著では、岸政彦氏が「ブルデューの闘争は『必死で頑張っている』というぐらいの意味で捉え直してほしい」と書いているが、そもそも闘争の場に出たくない。

 

評価:全力で戦わないといけないので☆1つ

「ディスタンクシオン講義」では「ブルデューは最後まで大衆とともに怒っていた」と評されていたが、大衆のための手段として本当にそれで良いのかと考えている。

  読書会でも少し話をしたが、本書の評価は☆1つ。「くだらない本」だからでは無い。「問題提起の内容はわかるけど、その問題を解決するための手段が本当にそれで良いのか疑問」だからである。だからこそ、好き嫌いという次元で話すのではなく、きちんと向き張って批判しないといけない本であり、敬意を評しての☆1つである。ブルデューの問題提起自体はは理解できるが、その手段が結局は問題の解決どころか強化・追認につながってしまう。この論自体に誤りがある可能性はあるが*1、それでも私自身の意見を整理し、きちんと向き張って批判するためには書かなければならない。そう思う。

 

ところで全くの余談だが、猫町倶楽部フィロソフィア分科会には何度か参加しており、いくつかは現代哲学の思想を取り上げた本だった。その感想をかいつまんでリストアップすると、

・フーコー:新書も読んだけど、わからん!!テーマは刺さらない、無理!!

・ウィトゲンシュタイン:難しいけど言っていることは腑に落ちる。正確に理解してすれば応用範囲は広いし、これまで出てきた「問題」も新たな見返し方ができるのでは。

・ブルデュー:理解はできる。だが同意できん!全力で戦わねば!!


という感じである。私は現代フランス哲学と相性が良くないのかもしれない。

*1:というより、現代哲学をきちんと学んでいるわけではないので、むしろ誤りのある可能性が高い。