今日も知らない街を歩く

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神学世界と地続きの現代 -ハイデガー 存在の歴史 感想の散文-

猫町倶楽部フィロソフィア分科会で読んだ「ハイデガー 存在の歴史」。

  大学時代にドイツ哲学に憧れを抱いて、カントもヘーゲルもハイデガーもすべて読んだ。もちろん理解できず玉砕した。今は「わからないものはわからない」と加齢による居直りが進んだためか、本書を読んでハイデガーの思想を理解できなかったこと自体のショックは無い。予想はしていたけど、現存在や環世界の説明は、何回読んでもしっくり来なかった。そのため、ハイデガーの思想に関する理解は諦めて、その周辺状況に焦点を当てて読んでみた。

以下、感想という名の散文。

 

現代は言うほど神学から離れていない

  本書はハイデガーの伝記で、ハイデガー哲学の背景やハイデガーを取り巻く社会情勢についても説明されている。その社会情勢について、盲点だったことがある。カトリック・プロテスタントの存在と影響である。ハイデガーは「現代哲学」とカテゴライズされる(今はそうでもない?)、かつ産業革命以降の哲学であることから神学の要素は薄いと認識していたが、本書を読むと実際にはそうではないことがわかる。
  当時のドイツ(ワイマール共和国)は、戸籍にカトリックとプロテスタントどちらかを記載する欄があるくらい、キリスト教とどのように関わるかが問われている社会だった(もしかしたら、あまりにも当然過ぎて当の国民にしてみたら「関わるかが問われている」という意識すら無かったかもしれない)。当のハイデガーも当初は神学を専攻しており、ハイデガー哲学にはその色が残っていると述べられている。また、カトリックに興味はないけど食い扶持・ポストを得るためにしぶしぶ研究テーマとして選択する、昇進にはカトリックとプロテスタントの影響が残っているなど、生々しい状況が書かれていた。
  100年前は信仰している宗派によって昇進・ポストの影響を受ける社会がまだまだ存在していた。宗教によって差別を受けるというのは現代には無いと素直に考えていたが、そうなったのは本当につい最近のことであるし、場所によっては(国という意味ではなく、業界という意味で)まだ存在しうるのかもしれない。


特異点としてのハイデガー哲学

  ハイデガーの哲学をわからないなりに読んで感じたことがある。ハイデガー哲学は、いわゆるドイツ観念論から離れた「特異点」のような哲学である、という印象である。この印象を抱いた理由は本書を読んで合点がいった。ハイデガー哲学の源流は前述の通り神学である。加えて、「存在と時間」は一部しか刊行されていなかったが、構想していた第二部では「カント」「デカルト」「アリストテレス」と遡って存在論の歴史を解体するつもりだった。
  ハイデガーの「存在論」の問いには、ライプニッツ・スピノザ・ヘーゲルなどのドイツ哲学者は出てこない(もちろん構想しか記述されていない状況なので、実際に書く段になれば言及される可能性は大いにあったかもしれないが)。ハイデガーがこれまでのドイツ観念論とは異なるテーマ・アプローチを採用したため、特異点のような印象を受けたのだろうなと、今は思う。

 

死地に赴くとしてなんの本を持っていく?

  このテーマは読書会で出たトピック。ハイデガーがナチスの思想に通じるものがあったという話から、実際に兵士たちがハイデガーに傾倒し、戦場にハイデガーの本を持っていたという話が出た。では、もし我々が戦場に兵士として従軍することになったら何の本を持っていくか?

 

  真面目に考えるなら「夜と霧」「超級!機動武闘伝Gガンダム」のどちらかである。

 

  後者は1冊では済まないという問題があるものの、読むことで戦場にただひとりで戦うための精神を養えると結構本気で思っている。ただのギャグ混じりの面白ガンダム漫画にとどまらない。

 

  結局ハイデガーの思想は理解はできなかったのだけど、それでも別視点からのアプローチを取ることで実りの多い読書会であったと思う。

 

 

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ドライキウイを紅茶に浸して飲むのが最近気に入っている。

ドライキウイは結婚式の二次会の引き出物でもらったのだけど、想像以上に好みだったので追加で注文した。しばらくは紅茶にいろいろなドライフルーツを浸して食べることにしてみる。おそらく酸味系のドライフルーツが総じて相性が良いと思うのだけど、さて。